令和八年 秋分
和の傘

かつての日用品
てるてる坊主
秋分_秋の彼岸である。遠き古里の墓に思いを馳せ、仏壇に手を合わせ御萩をいただく。
野分(台風)の到来もあって、九月は秋の長雨が続く。雨が降らぬ日も曇り空である。例年に比しても日照時間は随分短いのではないだろうか。連休中も雨が続き、目の前の多摩川も増水で河川敷にまで川幅が広がりそうな勢いである。
「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ」と「てるてる坊主」のひとつも吊るしたくなる気分だ。白い布を丸めて軒先に吊るし、晴れたら目口鼻を書き入れる「てるてる坊主」は江戸時代頃から民間に流行った子供の風習だそうだ。私の幼い頃までは、まだ遠足の前の日などに晴天を祈って吊るしたりしていた。現在では、そんな情緒のある家庭はごく少数であろう。
いつだかラジオの投稿にあったのが、投稿者が子供の頃、運動会の前日に、父親がはりきって小学生低学年くらいの大きさの「てるてる坊主」を作って、住まいである5階のマンションのベランダに吊るしたという。するとその夜中、玄関のドアを激しく叩く音で起きた父親が応対に出たところ、外には複数の警察官が、「お宅のベランダで人が馘をつっているという通報が近所からあったのですが、大丈夫ですか」と警察官。慌てて父親は巨大なてるてる坊主を外し警察官に平謝りした、というのがあった。大笑いしながらも、反面、どことなく世知辛い気のする話であった。
雨降りの日に出かける際には、レインコートを着るが、別名、合羽(カッパ)とも言う。これは戦国時代にやってきたポルトガル人や宣教師によってもたらされた「カパ」がその語源である。和装の羽織も、ポルトガル人が着ていた上着を真似たもので、戦国時代以前には存在しない衣服である。いつの世も格好良いと思うと人はすぐ真似をする。
昔ながらの庶民の雨着には「箕(みの)」が使われた。蓑は茅や菅、藁や棕櫚(しゅろ)で編まれ。乾燥すると縮んで軽くなり風通しが良く、雨降りの際は水分を吸って膨張し、内側に雨を通さず人は濡れないと、すこぶる実用的であった。
雨を楽しませる和傘
基本的に外出は着物でと決めているので、極力雨の日は外出しないようにしている。それでも、どうしても和装で雨の日に外出しなければならない時は、和傘を挿す。着物に洋傘はなんとなく合わず。まさかビニール傘を挿すわけにはいかない。しかし、洋傘と違い和傘は重いのが難点である。荷物がある時などは電車の中などで両手が塞がり難儀である。それでも痩せ我慢して、どうってことないという顔で和傘を手に歩いていくと、銀座あたりでは外人観光客にウケがよく、サムズアップされることがある。
雨上がりには、重くて扱いの悪い和傘であるが、雨降りに挿すとこの上なく良い。まず開く際に〝バリッ〟と音がして竹の骨組みの間で縮まっていた和紙の開く音がする。パラパラパラと和紙に落ちる雨の音が心地よい。和紙を通して見る光も優しくなるのである。和傘は雨を楽しませる。
和傘のルーツは蓋(きめがさ)にある。蓋は、紀元前850年頃の古代メソポタニアのアッシリア皇帝を描いたレリーフに登場するという。王や貴族のような権力者が立つ背後から、従者が掲げる傘のようなものが蓋である。蓋は中央アジアから中国を経て日本に伝えられたとされ、古墳から出土した埴輪(はにわ)に「蓋形埴輪」なるものがあるという。また八世紀の有名な古墳「高松塚古墳」の壁画にも蓋は登場する。しかし、この時代の蓋は木製の骨組みに布を張ったもので、開閉はできない。また雨を凌ぐというのが目的ではなく。あくまでも権威の象徴である。
蓋が竹の骨組みに和紙の雨具となって登場するのが、平安時代の「源氏物語絵巻・蓬生(よもぎう)」〈国宝・徳川美術館所蔵〉である。場面は、光源氏が雨の中、末摘花(すえつむはな)の邸を訪れたところで、光源氏の左手には和傘が握られている。
次に和傘を見るのは鎌倉時代の絵巻「一遍上人絵伝」である。この絵巻には一遍上人と市井の人々の姿が描かれており、多くの場面に和傘を見る。ここに描かれる和傘は、明らかに自由に開閉できるものだという。
今の和傘の姿を見るのは、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』に庶民の生活の中の道具として、「番傘」や「蛇の目傘」、「青傘」「紅葉傘」「奴傘」「大黒傘」などの多くの和傘が記録されている。我々がテレビや映画の中で、貧乏長屋で傘張りの内職をする浪人の場面を見るように、和傘は江戸の大衆の生活用品として存在していた。
日用品である和傘であるから、全国各地で作られていたと見られるが、三重県、和歌山県、福岡県と並び有名だったのは岐阜県の加納で、昭和に入り洋傘の普及で和傘が廃れる中、全国生産量の60%を占めた。最盛期の昭和23(1948年)には年間生産量八百万本に達し、和傘生産従事者が約五万人いたという。それが約六十年後の平成17(2005)年には、従事者わずか31人と壊滅的な状況となっている。まあそれだけ和傘の需要が無くなったということで、需要がなければ供給側の作り手がいなくなるというのは、当然の成り行きであろう。現在、市場に出回る安価な和傘はそのほとんどが中国製である。
岐阜の加納が和傘を量産できたのは、分業制が確立されていたからである。他の地域は、一人の職人が全ての工程を賄って和傘を作った。現在も残るのは職人ひとりの工房ばかりである。
今までに三箇所の和傘を取材したことがある。
一軒目が石川の金沢傘の工房である。松田さんという全国でも有名な和傘職人さんの工房で、雨の多い金沢の和傘は丈夫なことで有名であるが、反面、古都金沢らしく優美で美しさと堅牢を併せ持つ傘であるのが特徴である。予算オーバーであったが思い切って一本購入した。都合二度お伺いしたが、当時すでに90歳近いご高齢で、数年後に息子さんに代替わりした。息子さんは、勤め先を定年退職されてから後を継いだため、技術的には先代よりかなり劣っているのが残念である。
二軒目は岩手の花巻傘である。滝田工芸さんへ伺った。雪国の和傘も丈夫である。滝田さんの作る和傘は質実剛健、丈夫でまことに無駄のない普段使いの和傘が多い。早速、普段使いにと「番傘」を二本購入した。
三回目は熊本の山鹿傘である。こちらも野分(台風)銀座の地らしく丈夫であるのが知られるが、残念ながら工房にはお邪魔できなかった。観光協会が保持する和傘を撮影用に借りることにして、事務所にお伺いして、さてどんな色目のものかと確認のため協会員の方に開いてもらったところ、〝バリッ〟ではなく〝ベリベリベリ〟という不吉な音がして、開くと同時に和紙が破れた。聞くと、他所で修行したという若者が移住して、山鹿傘を引き継いでいるという。俯いて事務所を後にした。
今、我が家の玄関には三本の和傘がぶら下がっている。二本の花巻の「番傘」、一本の金沢の「蛇の目傘」である。金沢傘は大事にして滅多に使わないので綺麗なままであるが、普段使いの「番傘」の一本は柄の竹にヒビが入っている。もう一本は頭の轆轤(ろくろ/すべての骨を束ね骨組みを支える)を覆っている漆塗りの和紙がボロボロ寸前である。
これらが壊れてしまうと、修理してくれる職人さんがいないのが、寂しい。
編緝子_秋山徹













































































































































