令和六年 立秋
月の涙
French Polynesia_2
常に識る
立秋_夏真っ盛りの中でも、秋という字に涼しさの趣を感じようとする日本人の季節感がある。次の季節の気配を探るという独特の文化的特性である。
たとえば、早朝に開いた朝顔の花弁に落ちる露などは、微かな秋の気配である。夜明けに花開き昼にはしぼむ朝顔を、古来、日本人は秋を告げる花としてきた。
—朝顔や つるべとられて もらひ水
加賀千代女(ちよじょ)のこの歌は、日本人の季節感と独特の感性を見事に表している。
たぶんであるが、この句の意味をAIに理解させようとしても失敗するであろう。朝顔・釣瓶・取られる・貰い水という単語からAIはその単体の意味と多数の連想語を瞬時に叩き出すが、「何故、朝顔の蔓が釣瓶に絡みついたら水をもらいに行くのか」を理解することはできない。日本人以外の外国人も理解できないかもしれない、人の心の機微を識る機能はいまのところAIにはないようである。
と、私が言えるのはAI研究者の次の文を読んだからである。
—「夏、テニスをして、終わってから飲んだビールが、美味しかった」という文章を読んで、何故ですか、と質問しても、AIは答えられなかった。人であれは、夏は暑い、テニスをすれば汗をかく、ビールは冷たい、汗をかいて、冷たいビールを飲めば美味しいことは誰にでも理解できる。このテニスをした人は子供じゃない、こともすぐに分る。人にとってはこれら連想は常識的なことである。
この時、AI研究者は、常識という知識を、コンピュータに実装することが、いかに難しいかを知った。
技術革新は日進月歩である。やがて、これらの常識をAIが持つ日も近いのであろうが、すでにAIが作成する文章に溢れている現状であれば、人様の方が常識を失う可能性のほうが高いのではないかと怖くなる。
四年の謎
前回に続きフレンチ・ポリネシア黒真珠養殖場のお噺である。
さて、養殖場における我が日本事務所の役割である。
フレンチ・ポリネシアには118の島があると前述した。この島々の散らばり具合がとてつもなく広範囲である。どれだけ広範囲であるかというと、全ての島をカバーする範囲の大きさはヨーロッパ大陸と変わらない。したがって島々間の交通のみならずインフラ関係の生活用水は雨水、ガスはプロパン、電気は発電機で起こし、飲料水は食料とともに運ばれてくるという環境である。中でも通信手段が限定的である。養殖場とタヒチ・パペーテのオフィス間の連絡は専用のアンテナを設置してどうにか電話やファックスが通じているが、天候によっては不通になるという状態である。
当然、日本からの国際電話など直接島には繋がらない。そこで、日本人技術者の日本にいる家族に何かあった場合の連絡は、まず家族からこちらの日本事務所に連絡があり、日本事務所からパペーテのオフィスにファックスを送る。この場合オフィスには家族からの連絡事項を日本語で記し、これをオフィスから養殖場にファックスしてほしいという旨をフランス語で記して送るのである。その逆の場合も同じ手順である。この作業は頻繁にあるものではないのだが、緊急時には必ず必要不可欠な日本事務所の役割だった。
他には、こちらの方が島の彼らにとって重要なことなのだが、毎週、主要週刊誌とスポーツ新聞、ボクシング等の格闘技番組をビデオ録画して送ることだった。仕事が終わった後の島の夜は長い。テレビは電気を起こして点くがテレビ番組が映るわけではないし、ビデオを観られるが発電機で起こす電気のため長時間というわけにはいかず視聴時間は限られる。そこで、タヒチアンも大好きなボクシングや格闘技を皆で賑やかに観るのが良く、このジャンルに限定された。あとは日本語の活字に飢えているので、読みやすい週刊誌・スポーツ新聞となる。本のリクエストもあれば同送した。
日本の家族も送付していたようだが、いかんせん送料が高いので頻繁には送れない。当時で五千円弱していたように思う。なんせ「日本—(航空便)—パペーテ—(小型飛行機)—近隣の島—(船)—マニヒ養殖場」の行程である安かろう訳がない。費用が養殖場の会社から出ている日本事務所だから毎週送れるのである。
養殖場には二度訪れた。
一度目は、日本人技術者の代表数名とフランス人オーナーとの養殖場の今後の方向性や待遇などの交渉・話合いの場に、家人に通訳として来て欲しいということで行った。当初、私は行く予定になかったのだが、娘が幼かったため現地での子守兼荷物持ちとして同行することになった。話し合いはパペーテのオーナーの家で行なわれたが、事前打ち合わせと現場も見て欲しいということで養殖場も訪れた(あくまでも私は子守としてであるが)。オーナーのパペーテの家は、これぞ豪邸であった。門から玄関までは両脇に背の高いパームツリーが並びその外側はただただ広い芝生である。広大な家屋はタヒチ建築の伝統的な様式が使われていた。玄関の反対側がプライベートビーチでビーチハウスと東屋は通常の一軒分の広さがあった。会議の間、フランス語など一切話せぬ用なしの私は娘とビーチで戯れ、東屋で昼寝をしていただけである。
二度目は、小学館の雑誌の編集長が、養殖場の日本人リーダーのNさんに興味を持ち記事にしたいということで、ライターとカメラマンを案内するコーディネイターとして訪れた。この時、ライターとカメラマンが日本/パペーテ間を週一便しか飛んでいない直航便に乗り遅れるというトラブルがあり、擦った揉んだした。とりあえず私が先にパペーテに飛び、彼らはオーストラリア経由の乗り継ぎでどうにか翌日到着した。彼らが遅れた理由が、朝のラッシュ時にカメラマンの車で成田に向かったというものだった。以来私は取材の場合、車でないとどうしようもない場所以外は、なるべく公共交通機関を使うようにしている。
養殖場のフランス人オーナーJBは当時八十代後半の人物で、フランス国内で複数の企業を所有する有名な資産家だった。当初はJBが資金を出して夫人が始めさせた養殖場だったが、数年経って経営をチェックしてみたら、あまりにも杜撰であったので、JBがテコ入れして落ち着いた。
JBが夫人に養殖場を始めさせた経緯は驚くべき話だった。JBの最初の妻はずいぶん前に亡くなり、現夫人と結婚した時には随分歳の差のある夫婦となった。確か二十歳近い年の差があったように思う。JBは若い夫人をとても大切にし、やがて一人息子が生まれる。亡妻との間に子供のいなかったJBは、跡取りとして、これまた深い愛情をもって育てた。やがて息子は大学を優秀な成績で卒業した。JBは自身の企業に迎い入れ、帝王学を授けようとした矢先のことだった。この息子は誘拐され、結果、殺されてしまう。誘拐から殺されるまでの詳しい経緯は、話してくれた技術者リーダーも知らないらしい。
息子の死を嘆き悲しむ夫人に、何かをやらせることで元気を取り戻させようと、以前から夫人がやりたがっていた黒真珠の養殖場を始めさせたということだった。JBにとって養殖場の赤字など、夫人が元気になればそれでよく、取るに足らないものだったが、何年も赤字が続き額も大きくなるので、内容を見てみたらあまりにも酷い状態で、夫人に事業を続けさせるためにもと、テコ入れをしたのだった。
日本人スタッフとオーナー夫妻の交渉の際、スタッフが危惧していたことはJBが高齢なことで、将来の経営の継続性について不安があるということだった。夫人にJB亡き後の経営が務まるとはとても思えなかった。スタッフは正直にその旨を伝えるとJBは「大丈夫だ。あと四年は何があっても私は死なない」「それ以降のことはちゃんと考えているから、君たちは安心して仕事をしなさい」と答えたという。
何故、四年なんだろう。自然に沸いた疑問を日本人リーダーに問うた。彼もJBから直接聞いたわけではないのだが、と前置きして「誘拐犯の主犯格が四年後に出所するらしい」と教えてくれた。何十年服役したかは知らぬが、誘拐犯は長い刑務所暮らしを終えて解放されたその瞬間に、JBの復讐を受けるのだろう。JBの静かなる怨みと怒りが彼を生かしていた。
タヒチには「黒真珠は月が海に落とした涙」という言い伝えがある。JB夫妻にとって黒真珠は、不慮な死を遂げた息子の化身なのだろうか。
いまパリでオリンピックが開催されている。誘拐犯の屍が浮いたかもしれぬセーヌ川を各国選手団を乗せた船が行進・航行し、トライアスロンの選手たちが泳いでいる。
編緝子_秋山徹