令和六年 立冬
吹けよ風、呼べよ嵐
神の風
秋の暮れ
立冬_本日から立春の前日令和七年二月二日までが暦の上では冬である。
河原に遊ぶ保育園児の服装は落ち着いた色合いのものになったが、お揃いの黄色い帽子をかぶってそこ此処を駆け回る子らの嬌声は相変わらず甲高い。室内から背を丸めて様子を覗く親爺とは大違いである。あまりの大昔のことで、おのれにもこんな幼児の時期が本当にあったのかどうか、呆けかけた頭には思い出が映らず茶をすすりながら時が過ぎる。
ようやく〝冬〟という字面が素直に胸に落ちる気候となった。とはいえ字面だけで体感的には、〝秋の暮れ〟といった時候である。
〝秋の暮れ〟は晩秋のこの時期の季語である。
漱石に
病妻の 閨に灯ともし 暮るる秋
の一首がある。
この句は漱石が熊本に赴任していたときの作とされ、病気で臥せている妻を労った想いが、閨(ねや)に灯ったほのかな明かりの温かみを感じさせるようだが、妻の病は自殺未遂の影響であり、その原因となったのが漱石の癇癪と、自身の流産のショックから重度のヒステリーを起こしたことらしい。と、背景を知ると、この句からは甚だしく冷ややかである〝冷まじ〟が身を震わせる。しかし、その後漱石の神経衰弱が酷くなった時には、逆に夫人が漱石を支え続けたというから、夫妻の灯は燈り続けたというのが救いである。
秋の暮れの時候から冬の季節風のはしり〝凩(木枯し)〟が吹き始める。凩といえば番度浮かぶのは、木枯し紋次郎が咥えた長い楊枝から鳴らされる「ひゅーっ」という音であるのが、我が身の感性の乏しきことよ。
晩秋の風といえば、今からおよそ750年前、日本を護る風が吹いた。
フビライの野望
蒙古(元)成吉思汗(チンギスハン)の孫フビライは、中国を統一し、安南(ベトナム)・ビルマ・ジャワを従属,のち高麗を服属した。次に着手したのが日本の服属である。文永五(1268)年以降たびたび使者を送ってきたが、当時の鎌倉幕府はこれを固辞。
フビライは、文永十一(1274)年正月、九百艘の造船を高麗に命じた。船は突貫で急造され(結果これが日本には吉と出る)十月二十日、元と高麗の大軍団は対馬・壱岐を侵し博多湾に上陸した。いわゆる「文永の役」、世に言うこれが〝元寇〟〝蒙古襲来〟である。
防戦一方の鎌倉軍であったが、なんとか当日は持ち堪え、夕刻に元・高麗軍は一旦船で引き上げた。翌日が鎌倉軍にとっての剣ヶ峰である。日本の運命はこの日にかかっていた。
博多湾に決死の思いで待ち構える鎌倉軍。しかし、元・高麗軍が一向に攻めてこない。斥候が海に出てみると、博多湾沖を埋め尽くしていた元・高麗軍の船はその二百隻余が沈み海の藻屑と消え去り、残りはほうほうの体で退散していたのである。
夜半の強風に高麗で急造された船は、あっけなく壊れ沈み、残る船も大きなダメージを受け退却を余儀なくされたのである。文永十一年十月二十日は現在の新暦では十一月二十六日ころにあたる。台風の季節でもないのに、夜中に突如吹き荒れた突風、これに日本は救われ護られたのである。神の風が護りたもうた、現代にも呼ばれる〝神風〟である。
当時の公卿の日記『勧仲記(かんちゅうき)』には
「凶賊の数万艘海上に浮かぶ。しかるに俄かに逆風吹ききたりて本国に吹き返す。少々の船は陸上に馳せ上がる」
数万艘というのはいささか大袈裟であるが、それほど巨大な船団に見えるほど、恐怖が大きかったということだろう。
とにかく、日本史上初めての外敵からの軍事侵略は、神懸かり的な突風による敵国の退散という形で無事凌ぐことができた。
しかし、皇帝フビライは、日本侵略をこの一度のみでは諦めたわけではなかった。
文永の役から七年後の弘安四(1281)年五月、フビライは高麗の合浦(がっぽ)から兵四万・船九百艘、さらに支那の寧波(ニンポー)からは兵十万・船三千五百艘の大軍団を出兵させた。前回とは比べものにならぬほどの大規模な兵力が押し寄せ、壱岐と志賀島(しかのしま)を落とされたが、鎌倉軍は蒙古軍を上陸さぜずに、どうにか持ち堪えた。
これには地の利もあった。博多湾から上陸するには可能な地点が限られており、蒙古軍は小舟で少人数ずつでしか攻められないので、要所を強固に固めれば容易に突破されないのであった。しかし、博多湾を埋め尽くす蒙古の大軍に上陸を撃退するほかは、鎌倉軍に為す術はなかった。この陸と海との睨み合いは二ヶ月にも及んだ。
ところが二ヶ月を過ぎた七月一日、蒙古の大軍は博多湾からその姿を消す。超大型台風の到来である。この台風の規模、瞬間最大風速55.6メートル、中心気圧921.4ヘクトパスカルである。この規模は現代の基準で猛烈な風速を伴う超大型台風とされる。この超大型台風が屋久島から天草を経て博多湾海上の蒙古軍を直撃したのである。この台風のデータは、樹齢千六百年の屋久杉の年輪中にある〝台風斑点〟により確認・立証されたという。
二度目の蒙古軍を襲った大風が吹いた七月一日は新暦の八月下旬にあたり、まさに台風シーズン真っ只中のことである。
中国の古書『元史』の「日本列伝」には
「充満の衆のうち、還るを見たるもの三人」
と、これまたかなり極端な記述であるが、それだけ蒙古(元)にとってはショッキングな退却であったと思われる。
そう、蒙古(元)にしてみれば日本の鎌倉軍に戦で負けたのではない。突如として大風が吹き船団の船が沈んでしまうという、敗戦ではない、訳の分からぬ不運に見舞われたのであり、フビライにとっては受け入れ難いものであったろう。
実は〝元寇〟は、世に有名なこの「文永、弘安の役」の両役だけではないという。弘安の役から下ること二十年後の正安三(1301)年のこと、薩摩の甑(こしき)島沖に二百艘を超える船団が現れた。しかし、この時にも大風が吹き、船団は消え去った。
三度となると、これはもう日本は神の大風に護られているという〝神国思想(神が開き守護する国)〟が興きる。この時期頃から〝神風〟という言葉が当てられるようになったようだ。
本来の〝神風〟とは伊勢の神々が吹き起こす風のことを呼んだが、三度の元寇以来、神が日本国を護る風を意味するようになった。
調べたことがあるわけではないので、確かなことは言えないが、その国の歴史の中で外敵に責められたことがなく、初めて責められてから二度、三度目と戦いではなく大風・台風という自然現象によって難を逃れたというのは世界でも類がないのではなかろうか。ここに日本人が神の力を感じてしまうのは、宜なることに思える。
いまの令和の時代に、この日本を護ってくれる〝神風〟が吹いてほしいと願うのは私だけではあるまい。政治の劣化による国体の弱体化、中国、北朝鮮、ロシアといった隣国の脅威という〝内憂外患〟の極みが今の日本を覆っているように感じる。
アメリカのトランプ大統領再選をはじめ、欧州各国でも自国優先の保守色の強い政権が生まれている。
神頼みをしている場合ではないのかもしれないが、今般の政局の為体を見るにつけ、神にすがる他ないような気がしないでもない。
編緝子_秋山徹