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令和六年 処暑

2024年8月22日 ~ 2024年9月6日

記憶に残る人

祭りのあと

慰霊

処暑_暑さが処(よこたわ)っている。台風もやってきたが、相も変わらず熱帯夜である。

7月27日から始まったパリオリンピックが8月11日に17日間に及ぶ競技を終え閉幕した。8月28日からは12日間の日程でパラリンピックが開催される。

個人的には、オリンピックの選手も非常に能力の高いアスリートであると思うが、身体にハンディを持つパラリンピック選手の方が超人に近いのではないかという思いである。足や腕の欠損している選手が、泳ぎ、走る姿には圧倒され、人類の身体的能力の素晴らしさに畏敬の念を感じざるを得ない。

今回のパリオリンピックでは多様性・ダイバーシティーとエコロジカルがテーマに掲げて開催されたが、多様性を表現しようとした開会式の演出、選手村の環境と食事があまりにもエコロジカルで劣悪であったこと、競技が行われるセーヌ川の水質問題、各種競技における誤審等々の問題が噴出した。パラリンピックでは改善されていることを望む。

取りあげたいのは出場選手団帰国時のメダリスト会見のことである。

卓球女子シングルで銅メダル、団体戦で銀メダルを獲得した早田ひなさん(24)が、会見で「帰国した今何がしたいか」という問いに対して「鹿児島(知覧)の特攻平和会館に行って、自分が生きているのと卓球ができているのが当たり前じゃないことを感じたい」と答えた。時、8月14日終戦記念日の前日である。寄る年並で大いに涙腺のゆるくなった我が身に、嬉しさと感謝の念で本当に涙が出た。

ご本人もさることながら、周りに真っ当な大人がいたのであろうことが喜ばしい。何のてらいもなく「知覧特攻平和記念館に行きたい」と記者会見で述べたメダリストは早田さんが初めてではなかろうか。

批判する輩が出るのではないかと危惧していたら、やはり出た。

家族のため、ひいては国のため命を失った戦没者を慰霊するのは全世界の常識である。リベラルだろうが保守であろうが、この行為の意義に違いはないはずである。

それこそ多様性でいろいろ意見があるだろうが、英霊の御霊に対し尊崇の念を表すことが、戦争を美化する行為だとは到底思えないし容認できない。特攻で亡くなった若者たちは、ある意味で戦争の一番の犠牲者である。彼らの魂を慰霊するのは当然の行ないであるはずである。

早朝に靖国神社を参拝したことのある人なら、目にする光景がある。それは、ミッション系である白百合学園の小中高の女学生が、通学路の途中にある靖国神社の前を通るときに立ち止まり一礼する姿である。戦没者に対する不変の姿を表す若人の姿は美しい。

早田ひなさんが、我が郷里福岡県北九州市の出身であることもまた大変悦しい。

井上君

オリンピクのマラソンや正月の箱根駅伝を目にするたびに思い出す人がいる。

それは中学生時代の同級生井上君(仮名)である。

井上君とは中学三年間を通して三年生の時に同じクラスの同じ班になったというのが一番接点が近い。
当時私の通っていた私立中学校の校区は大変広く、一学年に10クラスがあり生徒数が多かった。後年、同じ校区に中学校が三校新設されたほどである。
そんな大人数の中で誰もが知るというのは余程の不良か成績の優秀なものだけであるから、違うクラスの井上君を私が知る由もなかった。まあ井上君は別の意味で少し目立ってはいたのであるが。

昔の中学には、今であれば養護学校に通うような生徒もクラスに一人くらいはいたものであるが、井上君は著しく能力に欠けるという風ではなく、勉強というものに全く興味がない様子で成績はすこぶる悪かった。また小柄で痩せていて、中学の三年間整列した時には常に一番前に並んでいた。また彼の肌は皮膚病かのように顔や手の肌は見るからにカサカサで、風呂にあまり入らぬようで体臭も異臭がした。衣服は、お下がり、もしくは何代も受け継がれたもののようで。彼のまとう学帽も学生服も靴も鞄も何もかも全てがくたびれ果てていた。

酷くイジメられているというよりは無視されているか、ひどく馬鹿にされたり、女子は彼がいると露骨にその場を離れたりした。しかし、井上君はいつも困ったような、はにかんだようにも見える微笑を浮かべていた。もっとも私は井上君のこんな姿を最初から知っていたわけではない。

一年生の冬のあの行事までは。

私の通う中学校には冬の年中行事として各学年ごとに開催される持久走大会というものがあった。たしか15kmほどの距離であった。

寒風吹き荒ぶ中、長々と走らされるのは憂鬱であった。日を変えて一年、二年、三年ごとの全生徒が男女一緒に走らされる。スタートの合図とともに校庭から一年生500名ほどが一斉に走り出す。途中7.5kmの折り返し地点を目指してやる気なくチンタラ走っていたら、折り返し地点のずっと手前で、誰かが反対側を走ってくるのが見えた。

「ああ、陸上部のやつだな、さすがだけどもう折り返したのかよ」と隣のやつに話していたら、向こうから来るのは、痩せ細った貧疎な感じの生徒だった。それが井上君だった。私が初めて井上君を見た姿だった。

井上君は例の困ったような微笑みを湛えて、淡々としかし尋常ではない速さで走る。あっという間に我々の後方のゴールに向かって走り去っていった。

「えっ!早っ」
皆が声に出した。

少しして陸上部の長距離の奴らが必死の形相で井上君を追っていった。

我々は皆知っていた。
「ありゃ絶対に追いつけないな」と、

案の定、井上君はぶっちぎりで優勝した。

慌てた陸上部の顧問が井上君を陸上部にスカウトしたが、井上君は、やはり困ったような微笑みを浮かべて首を振るだけだった。

何でも、陸上部に入ると帰りが遅くなり、アルバイトの新聞配達が出来なくなってしまうからというのが、その理由のようであった。井上君のアルバイト収入がなければ家計が立ち行かないほど、彼の家は貧しいようだった。

その後も陸上部の顧問はしつこく井上君を誘っていたが、やがて諦めてしまった。その頃には、ある種ヒーローであった井上君の扱いも、元の無視される井上君に戻っていった。困ったような微笑みはそのままである。

二年生の大会でも、三年生の大会でも、彼はぶっちぎりで優勝した。その度に陸上部の顧問は歯噛みしていた。

三年生のクラス替えで井上君と一緒のクラス、一緒の班となった。相変わらず異臭はする。女の子は彼を嫌がり、男子は馬鹿にしていた。私は持久走大会の彼の姿が目に焼き付いていて、どこか彼を尊敬する気持ちがあったが、それは決して表に出さなかった。

ある時、文化祭の出し物について班ごとに話し合うということがあった。皆がそれぞれ意見を言う中、班長の奴は井上君を無視して話し合いを続けた。これまでも似たような時に、井上君は存在しないかのように無視されていた。それを面白くないと思っていた私は「井上の意見も聞こうぜ。井上はどう思う」と言って井上君の顔を見た。

そのとき井上君の例の困った微笑みが、一瞬明るい笑顔に変わったように見えた。しかし、彼は「別に…何も…」と口籠っただけだった。班長は「ほらな」という顔で私を見た。

クラスには班ごとの日誌というものがあり、毎日班の誰かが書いて担任の教師に提出するのが決まりであった。井上君もこれさえも無視されて彼は常に飛ばされた。しかし、ある日彼は「今日は僕に書かせて欲しい」と言って初めて書いて担任に提出した。

そこには拙い字で「この班には、ぼくをふつうにあつかってくれる人がいる」と書いてあった。私は、自分のことだと嬉しく思った反面、偽善者で嫌な奴だと自分自身を思った気持ち悪い部分もあった。もっとも中学生の私がここまで明確に自分の気持ちを推量したのではなく、何だか居心地の悪い思いを抱いた。

ともあれ、それ以降、井上君とはポツポツと会話をするようになった。しかし、それは普通の生徒との一般的な会話程度で、仲の良い友というのには程遠いものだった。

秋に修学旅行があったが井上君は来なかった。秋にはもうひとつ三年生のみが参加する行事があった。それが「早朝登山」である。登山といってもさほど標高の高い山ではなく、峰続きの二つの山の頂上まで歩くというもので、早朝に校庭を出発して山道を行くのだが、これがなかなかにしんどい。心身の鍛錬の教科として長年この中学校に受け継がれているらしいが、中学生の身にとってはいい迷惑である。これまたぶつくさ言いながら歩いていたが、途中からぶつくさ言う元気もなくなり同級生と黙って歩いた。これにも井上君は参加しなかった。

三時間以上歩いて二つ目の山の頂上に着いた。晩秋の遅い朝日が輝いていた。あとは山を下ればそこにバスが待っていて学校まで送ってくれる。疲れと安堵で呆けていると、後ろの方で「えっ!」という声声がした。

体操服の我々の中を学生服を着た小柄な人間が上がってきた。井上君である。
「どうしたの井上」と私。
「いや、ボクの家この近くだからちょっと来てみた」と井上君。

唖然、呆然とする私と同級生。

私たちが鍛錬として三年に一度歩くこのしんどい道のりを、井上君は毎日通っていたのである。それも山間の家々に新聞を配達し終えてから。多分我々の何倍もの速さでこの山道を通わなければ遅刻するだろう。言葉もなかった。超人である。どうりで持久走大会なんて屁でもないはずだ。

その後の最後となる冬の持久走大会でも井上君はぶっちぎりの優勝をした。もう誰も驚かなかった。

やがて年が明け卒業の時期となった。クラスの三分の二は高校へ進学、残りは工場に就職した。井上君も工場組であった。

卒業式が終わって井上君が近寄って来た。
「じゃあね、秋山君、さようなら」
そして井上君は、またあの長い道を帰っていった。今日も夕刊の配達が待っているのだろう。

私は彼の逞しくも華奢な背中を見送った。

 

編緝子_秋山徹