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令和七年 夏至

2025年6月22日 ~ 2025年7月6日

君の名は

清正井と菖蒲田

永遠の杜

夏至_菖蒲や立葵の花が咲き梅雨の到来を知らせる頃。

菖蒲で思い出すのは、三十年以上前(—ああ、三十年以上も経つのか)、娘が生まれたばかりの頃、外苑前のキラー通りから青山スタジオ方面に入ったあたりのマンションを自宅兼事務所にしていた時期のことである。

早朝に明治神宮にお参りし御苑を散歩するのを日課としていた。
朝六時の開門に合わせて部屋を出て、表参道から一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居を潜り、南神門から外拝殿に至る。参拝の後、東神門を出て左に折れ北池を過ぎ宝物殿の前までくると、これでちょうど行程の真半分の位置である。ここから神宮の杜を抜け一の鳥居の横に出て、再び表参道を降ってマンションに戻る全一時間半のコースとなる。軟弱な性根のため雨の日は休んだ。

早朝、参道脇の杜の中の小道には人っ子ひとり歩いておらず、鬱蒼と生茂る木々の間の細い径を歩いていて茂みでガサゴソと音がすると、思わず早足になる程心細くなる。神宮の杜は、とても百年足らずの人工の杜とは思えぬ奥深い緑が続くのである。[およそ70万平方メートルの広大な鎮守の杜は、明治神宮創建にあたって全国から献木された約10万本を植栽し、「永遠の杜」を目指して造成された人工林/明治神宮HP]

二の鳥居を過ぎたあたりに、清正井(加藤清正の井戸)、つつじ山、南池がある御苑への入り口が見える。500円の維持協力金を払い入場すると、とても東京都心は思えない御苑の景色が現れる。どこか地方の山深い庭園に瞬間移動したような錯覚に陥る。中でもこの六月中旬に1500株の花菖蒲が咲き誇る「菖蒲田」が美しい。花咲く菖蒲の全体を一望するのではなく、橋や東屋が配置されたいかにも田舎の小径を歩き回遊しながら、菖蒲の姿を愛でる造りとなっているのが良い。

早朝の日課も六月下旬には、御苑の開苑時間の八時に合わせていつもより少し遅く出かけたものである。
つつじ山を過ぎ、菖蒲田を眺めて清正井に向かうが、この道程が結構長い。汗ばんだところで清正井にこんこんと湧く水で手を洗い口を雪ぐ。都心とは思えぬほど清正井の湧水はうまい。身を浄めたところで御苑を出て参拝へと向かう。

この早朝の日課の中で、何度かお見かけしたのが俳優の小林桂樹さんと山本學さんである。特に山本學さんは、作務衣に雪駄ばきでトロトロ歩く私の後ろからザクッザクッと参道の小石を鳴らして近づいたかと思うと、あっという間に追い抜いて、その後ろ姿はすぐに見えなくなった。とても早足で歩く。それは歩くというよりも足腰の鍛錬でという強度あった。俳優というのも体力勝負であるのだなと、また、私よりも二十歳も年上である人の自己管理に感心した。

巌となりて

道行きの半ば宝物殿の前には珍しい石が二つ置かれている。

ひとつは「亀石」これは字の如く目出たい亀の形をした石で自然の産物である。

もうひとつは、国家に歌われる「さざれ石」である。私は生まれて初めて本物のさざれ石を明治神宮のこの場所で見た。国歌を斉唱しているときに想像したよりも大きな岩であった。

立板の説明に次のようにあった。
[さざれ石は大小の石灰岩の角礫が集まったもので、学名を「石灰質角礫岩/せっかいしつかくれきがん」と云います。もともと小さな細石(ささめいし)の意味ですが、長い年月をかけて雨水などに溶け出した石灰分が沈着し、小石を凝縮して少しずつ大きくなって出来ます。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで
に詠まれているような、立派なさざれ石となって地上に現れるのです。この石は、国家の由来となったさざれ石を産出した岐阜県揖斐郡(いびぐん)春日村の山中で採取され奉納されたものです]

「君が代」が日本国国家と定められたのは、明治二十六(1893)年のことである。それまで「君が代」は薩摩琵琶にめでたい歌としてあり、西郷隆盛も愛唱していたという。
しかし、薩摩琵琶の調べでは国家として調子が良くないので、海軍楽隊の外人教師に依頼したが、いかにもバタ臭すぎた。そこから最終的に宮内省の楽師が編曲して、雅楽の荘重な楽調となった。

「君が代」を薩摩琵琶からさらに辿れば、それは『古今和歌集』に遡る。
『古今和歌集』の巻頭にある、
「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで/詠み人知らず」である。
この歌の詠み人も、まさか千年後に1億人以上の日本人が自分の歌を唱っているとは夢にも思わなかったろう。

この歌での「君」は「想い女(びと)」「恋人」とされる。〝愛しい人が、小さなさざれ石がやがて大きな岩(巌)となり、さらにその岩に苔がむすほどまで、末長く幸せでありますように〟である。それが、「君が代」となり「君」が天皇陛下とする解釈が加わった。君=天皇陛下が気にくわぬと左翼のリベラル派は式典での斉唱などに反対する。

私はこの世界一短い国歌が好きである。他の国の国歌の内容が、何かを勝ち取れ・立ち上がれという国威高揚のものが多いのに対し、「君が代」は、すべての世の中が穏やかであれという安寧を願う歌である。
国歌「君が代」の中の「君」は、人それぞれ誰であっても良い。恋しい人、子供や親や兄弟という家族、広く日本でも、はたまた天皇陛下、全世界でも良い。斉唱する人個々にある「君」で良いのである。

次の日曜日は都議会選挙の投票日、来月には参議院選挙、もしかしたら衆参同時選挙かも知れぬ。国民を「君」と捉えて世の安寧を心から願う候補者を選びたいし、そういう候補者がいると信じたい。

 

編緝子_秋山徹