令和七年 啓蟄
あのこがほしい

二・二六
はないちもんめ
啓蟄_土の中で培われた生命の息吹が地上に顔を出す頃。
今日もまた風の子たちが嬌声を上げながら多摩川の河川敷を走り回る。
土手沿いの桜の木が芽吹いて薄らと桜色がかってきたが、まだまだ冷えるなと思いながら火の子は日本茶を啜って縮こまる。
〈と、これはこのコラムを書いた先週の話、週が明けると一気に冷え込み雪まで舞った〉
すると風の子たちが二手に分かれ、それぞれ手を繋いで横一列に並び、二列が互いに離れては近づき行きつ戻りつしている。互いが一番近づいたときには、ラインダンスよろしく皆が足を前に出す。やがて各々が輪を作り、再度横一列になって、先ほど同様二つの列が行きつ戻りつを二往復ほどすると、列から一人づつが出てきて真ん中でジャンケンをして負けた方が勝った方の列に加わる。そして、また先ほどの列の行きつ戻りつが繰り返されている。
そう、誰もが昔懐かし遊び〝はないちもんめ〟である。
何十年ぶりに見たかしらと、最後に見た時を思い出しながら、歌が口をついた。
「はないちもんめ」
ふるさとまとめて はないちもんめ
かってうれしい はないちもんめ
まけてくやしい はないちもんめ
隣のおばさん ちょっときておくれ
鬼がこわくて 行かれない
お釜かぶって ちょっときておくれ
どの子がほしい
あのこがほしい
あのこじゃわからん
このこがほしい
このこじゃわからん
そうだんしましょ
そうしましょ
きーまった
おさきにどうぞ
◯◯ちゃんがほしい
◯◯ちゃんがほしい
じゃんけんポン
地方によって多少歌詞が違うようだが、概ね同じような歌詞で歌われる。
〝はないちもんめ〟は、せいぜい小学生の低学年くらいまでの童あそびである。私も同様に小さい頃にこの遊びをしたが、〝はないちもんめ〟にはほのかに甘酸っぱい香りが残る。手をつなぐ両側が女の子だと嬉しいし、可愛い子ならなおよろしい。反対側にお気に入りの女の子がいれば、こちら側に来ないかなと思い。もしくは、私がほしいと言われてあちら側の列に行くのも良いな、そしたらあの子の隣に行って手を繋ごう、などと妄想する。小さい頃から不埒である。だが、こう思いを巡らせるのは私だけではなかったはずだ。
しかし、現実は妄想とは違い、反対側から私がほしいという声が聞こえず、こちらの列がどんどん少なくなっていくと、小さい子供ながら焦る。〝ちょっと待てよ。もしかするとボクは嫌われているのか。好かれてないのか〟。さきほどの気に入った女の子どころの話ではない。列が一人になるまでこの遊びは終わらない。まずいぞ—最後まで欲しいと言われずに、私が一人残って終わるのだけは避けねば、しかし、自分ではどうすることもできもない。
列の仲間が少なくなってから呼ばれたら呼ばれたで、腹立たしい。何で今頃指名されるのだ。遅くはないか。なんでアイツの方が先に欲しいと言われるのか、どう見ても私の方が先だろうと、子供の胸は千々に乱れる。〝はないちもんめ〟は実社会の縮図である。子供は少なからずこの遊びで現実社会の厳しさを味わうのである。早く呼ばれたある子にとっては〝幸せ〟を、とても遅く呼ばれた子、特に最後まで残っていた子には〝悲しみ〟を与える。ある種残酷な童あそびが〝はないちもんめ〟であった。
花一匁
〝はないちもんめ〟には更なる昏い面があった。
〝はないちもんめ〟には「花一匁」という漢字が当てられる。一見きれいな字面である。
この「花一匁」は阿辻哲次『部首のはなし2/中公新書』によると、
—遊戯「花一匁」は、一説によれば、かつて「口減らし」がおこなわれていた貧しい農村から子供を買い集めるときに「花」(女児)一人につき金一匁が支払われていたという悲しい事実があったという。また別の説では、遊郭で「花」(遊女)を買うときの相場が金一匁だったとも言われる。いずれにせよ、子供たちが無邪気に遊ぶときの歌には相応しくない歌詞だ。童謡は、ときとしてきわめてむごい背景を持っている—とあった。
歌詞の「ふるさとまとめて はないちもんめ」は、生まれの貧しい村ではまとめて女児が売られ買われた。「鬼がこわくて 行かれない」の〝鬼〟は、貧しい農村を廻って幼い娘を買い集めていた女衒(ぜげん)であろう。
自分が遊びで最後まで残された哀しみどころではない。年端のいかぬ女の子が、生まれ落ちた家の家族の食い扶持のために、訳もわからず苦界に送られるのである。これ以上の現実社会の不条理はあるまい。
童謡『赤トンボ』にも「十五で姐やは嫁に行き お里のたよりも絶えはてた」とあるように、貧しい家の子は裕福な家の子守として出され、15歳になると労働力として農家の嫁に行かされ、便りを出す余裕もなく子を産み、働かせられた。昔は数え歳なので実際は14歳、今の中学二年生になったばかりの女の子である。たしかに童謡には、真の意味がわかると哀しいものがある。
約90年前の1936(昭和11)年2月26日に『二二六事件』が起こった。『二二六事件』は、陸軍の隊付青年将校が国家改造(昭和維新)を目指して蜂起し、政府要人を襲撃、永田町や霞ヶ関を占拠したが三日後の2月29日には鎮圧されたクーデター未遂事件であった。世情の背景として、日中戦争に突入した日本が世界的に孤立した中で、経済的に庶民の生活が大変苦しい状況にあったことも大きな一因であった。
『「二・二六事件事件」がよくわかる本/PHP文庫』に次の記述がある。
「隊付将校が政治的な思想を持つに至った背景の一つには、当時の農村・漁村の窮状がある。隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちと直に接する立場であるがゆえに、その実家の窮状を知り、憂国の念を抱いた。
たとえば、二・二六事件に参加した高橋太郎(事件当時少尉)の事件後の獄中手記に、高橋が歩兵第3連隊で第一中隊の初年兵教育係であったときを回想するくだりがある。高橋が初年兵身上調査の面談で家庭事情を聞くと、兵が「姉は…」といって口をつぐみ、下を向いて涙を浮かべる。高橋は、兵の姉が身売りされたことを察して、それ以上は聞かず、初年兵調査でこのような情景が繰り返されることに暗然として嘆息する。高橋は「食うや食わずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつわもの、その心中は如何ばかりか。この心情に泣く人幾人かある。この人々に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにはして置けない筈だ。殊に為政の重職に立つ人は」と書き残している」
二・二六事件を題材にした映画『226』の冒頭に昭和11年当時の映像が流れる場面がある。その中には「娘身売りの場合は當(当)相談所へ御出ください 〇〇村相談所」という看板と、粗末な着物に小さな風呂敷包みを抱えた少女たちが映っている。こんな看板が堂々と掲げられていた時代がかつての日本には当たり前にあった。
昭和11(1936)年といえば、私67歳が生まれるほんの21年前、母親の子ども時代のことである。
なんだか世相が今に似てはいないか。
物価上昇に対し賃金が一向に上がらず庶民が苦しい生活を送る中、〝為政の重職に立つ輩〟と役所〝お上〟が、この国民の窮状に心を砕いているとは到底思えない日本に。
確かに、現代ではどんなに生活が苦しくとも、子供が〝間引き〟されたり、〝口減らし〟で娘が売られることはない。しかし、こんな世情では子供なんか産んでいられないと、若い世代が自主的に出産を控えている。それが少子化の大きな一因のひとつであろう。何のことはない、分別ある間接的な〝間引き〟〝口減らし〟である。
だが、時代を憂いているだけでは何も変わりはしない。我々老年は次の世代にどんな日本を残して逝けるか、それぞれが小さなことでも何か行動することで、少しでも好転させることはできるはずである。このコラムで私がどんなに力説しても〝蟻の一穴〟にさえならないことは重々承知しているが、愚は愚なりに書き続けるしかない。
編緝子_秋山徹