令和七年 立春
散る櫻 其の二

四人の若き航空兵
太平洋戦争の申し子
立春_旧暦では新年元旦である。二十四節気では最初の節気にあたる。
二十四節気にはその節気に因んだ和菓子が多い。立春の和菓子としては、紫式部が好み源氏物語にも登場する「椿餅」がある。肉桂(にっけい=シナモン)風味の餅を椿の葉で挟んだ上生菓子である。この和菓子を抹茶もしくは吟醸酒の冷たいやつを遣っていると、肉桂の香りの中に必ず一茶の「春立つや 愚の上に又 愚にかへる」の句が浮かぶ。立春の私のお約束の〝ひとそろい〟である。
今回は、前回の大寒のコラムの末尾に予告した通り、陸軍士官学校(以下、陸士)第57期戦没者記録『散る櫻』より、四人の若き飛行機乗りの遺書・遺文をご紹介したい。
遺書のご紹介の前に、陸士第57期の士官候補生たちの時代背景を記したい。
第57期生が陸士予科に入校したのが昭和16(1941)年4月、八ヶ月後の同年12月8日に日本軍の真珠湾攻撃があり、日中戦争の最中にあった日本は米英と対する太平洋戦争へと突入する。彼らは昭和19(1944)年3月に陸士を卒業。戦況劣勢となった日本軍大本営は同年10月20日に神風特攻隊(以下、特攻)を創設し多くの若い命が失われた。翌昭和20(1945)年8月15日日本は全面降伏する。
太平洋戦争開始の年に陸士に入り、卒業と同時に多くが特攻隊となり、終戦直前の二年間で多くの戦没者を出す。まさに第57期生は〝太平洋戦争の申し子〟である。
記録によれば、特攻で散った若者は、海軍2,548名・陸軍1,355名の合計3,903名(柱)に上るとされている。
一方、アメリカ軍公式統計による太平洋戦域の戦闘における死傷者は、特攻が開始された1944年以降に激増し、1944年から1945年8月の終戦までで45,808名に上り、太平洋戦争でのアメリカ海軍の死傷者合計71,685名の63.9%にも達する。(終戦の1945年の8か月だけでも26,803名で37.4%)、1944年以降のアメリカ軍艦船の戦闘による撃沈・損傷等は約80%以上が特攻による損失である。
フィリピンの戦いで特攻は、海軍の戦果ともあわせると100隻以上の連合軍艦船を撃沈破しており、連合軍を恐怖に陥れた。
若き航空兵の遺書
以下、四名の陸士第57期生航空隊員の遺文である。
・まず一人目は、日野二郎大尉の遺文である。日野大尉の特攻戦死の様子を記したアメリカ側の記述を偶然見つけたので併記する。
◯日野二郎 大尉・八紘第10隊小隊長 殉義隊(特攻戦死・享年22歳)
昭和19年12月21日アンヘレス西発進、フィリッピン・ミンドロ島南方洋上の敵艦船に突入。
【最後の書簡】
「拝啓、父上様、母上様、私は今屏東(台湾南端)の宿舎におります。途中幾多の変遷を経て十数日もたって台湾に来ました。
海上にて途に迷って死を決意したことも二度ありました。その都度毎に母上様が私の眼前に来られまして、正しく方向を示して下さいました。
九日の如きは、沖縄、屏東間にて太平洋上途に迷って燃料一杯にて、やっとの事で台湾紅頭岫に不時着しました。この時は雨が降り雲が出て、洋上十米を飛行していました。燃料が少なくなって海の藻屑と心を定めた時、前方の雲中に母上様のまぼろしが見えました。はっと思って目を凝らすと、雲は晴れて、淡い島影が微かに見えました。
私は何時も武運に恵まれています。南方の空は美しく晴れて、満天の空は明日の首途を祝っているようです。明日はマニラに向けて出発します。書きたい事も色々ありますが、忙しいのでこれくらいにします。二郎は唯々、光栄に感激して重積の完遂に努力しております。
父上様、母上様、二郎が最後をよく見ていて下さい。お体を大切に」
—12月21日に殉義隊の一式戦闘機「隼」が7機出撃した。殉義隊の「隼」1機は、戦車揚陸艦「LST-460」上空で旋回したのち、45度の角度で急降下すると、あたかも甲板上にいた艦長のJ・B・マックドレン大尉を真っすぐ目指してくるような針路で突入した。マックドレンが慌てて伏せると、「隼」はその上を通り過ぎて艦橋に命中した。命中する直前に「隼」を操縦していた特攻隊員が機体から投げ出されて、遺体の一部が艦上に落下してきたという。爆弾の爆発で火災が生じて、火だるまとなったアメリカ兵が泣き叫ぶといった地獄絵図になったが、まもなく艦は沈んでいったので、多くのアメリカ兵が海上に投げ出された。また「LST-749」には2機の「隼」が突入、その躊躇ない突進に乗艦していたアメリカ軍士官は「特攻機は真っすぐ突っ込んできた。その態度には、ためらいなどの気配は全然見られなかった。そのパイロットはただ真っすぐに突進してきた」と驚愕している。「LST-749」も沈没し、2艦で100名以上のアメリカ兵が戦死し、多数の負傷者が出た。
「出典/デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』 時事通信社」
方向を見失って海の藻屑と消えようとした時、日野大尉を救ったのは〝母親のまぼろし〟だった。そのおかげで、後日、無事敵戦艦に突入できた。しかし、戦死した敵戦艦の乗組員の多くも若者であったろう。そして、それぞれに両親兄弟姉妹がいる。結局、双方の息子は死んだ。戦争で起きることに良いことは何もない。
・二人目は岡本勇大尉、こちらも所属部隊についての記述があったので併記する。
◯岡本勇 大尉・第61振武隊 隊長(特攻戦死・享年21歳)
昭和20年4月28日都城東発進、沖縄周辺の敵艦船に突入。
【遺書】
「御父上様、御母上様、勇は栄えある「と号※」(と号の「と」は特攻隊の略号)第61飛行隊長として、南海に散ります。思へば二十有余年温かき御慈悲の下、こんなに大きく育ててくださいました。その間何一つ出来ず、今となって不幸のお詫びを申し上げます。勇南海に散るも魂魄(こんぱく=心霊)は永劫に皇国の空を飛び皇国の無窮ならんことを祈っています。勇死すとも決して御嘆き下さいますな。喜んで喜んで下さい。—中略— 家のことに付いては、何等申す事もありませんが、只私の下に散ってくれました部下の家の方々へよろしく御伝え下さい。では御壮健で長寿を保たれんことを御祈りします。走り書きにて失礼しましたが、お許しください。
御機嫌よう。さようなら、さようなら。
四月二日 父上様 母上様」
—第61振武隊の概要
この部隊は常陸で編成され、隊長・岡本勇少尉(57期)、隊員は特操の少尉二名(1期)、少飛の下士官九名(第14・15期)の十二名編成であった。4月28日早暁都城西飛行場から第5次総攻撃に出撃の予定であったが、B29の空襲被害により急遽都城東飛行場から岡本隊長以下8機が発進沖縄西方洋上の敵艦船に突入、この際1機は途中で墜落殉職。さらに5月11日3機が、5月25日1機が突入。全12機の隊員が特攻で戦死した。
戦況不利となり、特攻隊員の需要は急速に増えた。軍部上層部は飛行訓練百時間未満の未熟な訓練生たちを、付け焼き刃的に特攻隊員に仕立てていった。彼らを束ねる隊長として十分な飛行訓練を受けた陸士出の尉官が努めた。第61振武隊においては第57期生の岡本勇大尉である。しかし、岡本大尉とて弱冠21歳の青年である。普通の部隊のリーダーではない。死に逝くことが使命の11名の部下をまとめる任は21歳は若すぎ酷である。遺書にも部下の家族に対する記述があり、彼の苦悩が窺い知れる。
・三人目は岡上直喜大尉、特攻戦死一ヶ月前に家族に宛てた手紙である。戻らぬ遺骨の代わりにと髪と爪を家族に送っている。
◯岡上直喜 大尉・八紘第10隊(特攻戦死・享年23歳)
昭和20年1月6日ポーラック発進、ルソン島サンフェルナンド沖の敵艦船に突入。
【命課(めいか=移動命令)直後に家族に宛てた手紙】
「愈々(いよいよ)戦地に参ることとなりました。20有3年この時の為に過ぐ。任務を考えますと生還もとより期し難く決死奮闘して犬死などはせぬ覚悟です。遺髪、遺爪は別便にてお送りします。航空兵の特質上遺骨は決して帰りませぬ。戦死の節は何卒之を埋葬してください。 —中略— 父上、母上のご期待にも副い、又弟妹等の模範にもなろうと存じます。—中略— では皆さんさようなら。皆の分も大いに働いて来ます。戦死したら靖国にお参りに来てください。」
—遺族の回想
昭和20年、千葉の正月は空襲警報が頻発する最中に明けたが、直喜の家の玄関脇の雪柳に一輪の花が咲いた。この狂い咲きを家族は直喜の戦死と受け止めて、その冥福を祈った。
遺文にあるように、岡上大尉の魂は靖国神社にある。
家族の無事と日本の安寧を願い。自らの命を賭して特攻で散った若者たちの御霊に、誠の哀悼の念を捧げんとすることを右翼と呼ぶなら呼べば良い。右翼で結構。しかし、日本に生まれ日本の風土と文化・慣習の中で育った者が、大戦で逝った人たちに感謝の念を抱いて靖国神社に参拝することが、そんなに偏狭な考えなのだろうか。
軍人さんは、「靖国神社で逢おう」「靖国神社で待っている」を合言葉に戦い亡くなった。
靖国は単なる神社・場所ではない。軍人さんの魂の拠り所である。戦う軍人の精神的な支柱のシンボルである。そこに軍国主義の思想や戦争美化のかけらもない。安らかに死した仲間と遺された家族と集い、今の日本に生きる者たちと平和を祈る場所である。
・四人目は齋藤勉中尉、彼は特攻ではなく偵察飛行中に敵機と遭遇し、交戦の中で亡くなった。
◯齋藤勉 中尉 (戦死・享年22歳)
昭和20年3月29日西南支那敵基地偵察の際、敵機と戦闘し戦死。
【昭和20年3月10日の書簡】
「父上様、二十二歳の新年を、ここ常夏の国で迎え三ヶ月経ちました。熱血を湧かして内地を出発した先年11月が夢のように懐かしく思い出されます。ビルマの山中で元気に働いていますから御安心ください。何処を飛んでも敵機ばかりですが、ビルマ航空隊は運を天に任せて全く愉快に元気一杯頑張っています。武運が少し強いせいか敵機にも数回会いましたが生き延びています。
ラングーンでみたパゴダは夕陽に映え黄金色に輝き神秘的に何かを訴えているような印象が胸にくい入りました。私たちのいる飛行場は至る所にマンゴの林で、その実は一度食べたら一生忘れぬ風味で、病気の母上に差し上げたいと思っております」
病気の母にマンゴを食べさせてあげたいという心優しき若者は、二十日後に22歳で亡くなった。御母上の心中は如何許りであったろうか。
齋藤中尉をはじめ陸士第57期生はおのれの〝家〟を守るために、命を捧げた。彼らが命がけで守らんとした家。それがいま、父が母が、兄弟姉妹が、別々の氏となるという、日本の歴史の中で連綿と続いてきた家制度を破壊することに繋がる「選択的夫婦別氏制度」などというふざけた法令を推し進めようという気運が国会にある。
この法令に賛同する者たちよ、ここに掲げた四名の遺文を前に、それぞれの胸に問うてみるがよい、本当にそれで良いのか。
今回、彼らの遺文・遺書を打ち込んでいると、涙でモニターが曇ってしょうがなかった。歳を重ねたせいもあるだろう。しかし、第57期生で同じく散った叔父の日記に「生命と富と位の要らぬ者は聖人である」とあるように、この時彼らは最も聖人に近かった。
しかるに今日の日本の体たらくはどうだ。
自戒を込めて叫びたい〝こんな日本に誰がした〟
英霊が哭いている。
編緝子_秋山徹