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令和七年 小寒

2025年1月5日 ~ 2025年1月19日

作太郎伝

祖父さんを忍ぶ

元旦の試練

小寒_元日を迎え、松の内も開けぬ時期の小寒の東雲に、冷え冷えとする中、空気澄みて清々しくもある。

多摩川河川敷の球児は2日には初練習を行なっていた。野球始である。頑張っておるなと、暖房の効いた部屋から、熱いお茶を呑みながら感心感心と親爺は眺める。

子供の頃の元旦の朝の思い出といえば、親父に必ず観せられたNHKの「新春能」である。番組では、正月らしい「羽衣」や「翁」といった演目が放送される。朝起きて新年の挨拶をしてから、着物に着替えテレビの前で正座して親父と並んで強制的に観せられるのである。

退屈である。
苦痛である。
しかし、親父は怖い。

小学生にとって「能舞台」ほど、つまらぬものはない。まず物語の粗筋がわからぬし、台詞の内容が見当もつかぬ。舞がゆっくりなのも眠気を誘う。親父は謡本を片手に見ているが、私に物語や台詞を説明してくれることもない。私は、只々座っているだけだ。この1時間は長かった。しかし、その後に待つ「お年玉」のことを考えると我慢しかない。私にとって正月早朝の「新春能」は「お年玉」の対価、代償であった。

この元旦の日の儀式は小学生の間続き、中学生になって解放された。解放というより、私が恐る恐る「もう嫌だと」親父に伝えたのである。意外にも、親父は一言「分かった」と言ったきり、それ以降は一人で観た。なんとなく寂しそうにしていたのを感じたは気のせいか。

親父の趣味、能とその詞章(ししょう=語り)である謡(うたい)は、祖父さん譲りである。親戚の集まりなどの酒席では、まず祖父さんが、次に親父が、時々二人でと謡が披露された。身内贔屓であるが、二人とも良い声色であったと思う。もうひとつ二人共通の趣味に碁もあった。

孫であり、息子である私は、残念ながらどちらも不調法である。当時は爺臭い趣味だなと思っていたが、折角、環境が整っていたのに、両者が生きているうちに、全く手ほどきを受けなかったことについては、後悔している。親父も私に興味を持って欲しくて正月の「新春能」を観せたのだろうが、珍しく無理やり教えることはなかった。今となっては、何だか人生に損をしてしまった気がしている。

新春に祖父さんを偲んでみたい。

模範青年は軍人さんに

以前も書いたが、わが家系の本筋は、祖母さんの系統にある。
本家の二女の祖母さんを、分家の養子である祖父さんが娶った。従って氏は同じである。かつての日本では、他家の長子以外で目端の効いた子を養子にとる、ということが良くあったようで。祖父さんがこれであったようだ。

本家の祖母さんのお兄さんで、私にとって大叔父に当たる人が、勤め(高校の校長を長年務めた)を辞してから、自身の人生を振り返り、また、時間をかけて調べ上げた家系について記した自費出版本が手元にある。

それによると「妹は、静かな中に落ち着いた日本的婦人として成人したが、幸いに分家の養子・三男で村の模範青年と呼ばれた作太郎(祖父さん)と結婚。夫の人物と才能から其社会的地位も向上して、幸福な生活を送り健在である」とある。身内の評価であるから贔屓目にみるのが良かろう。

【祖父さんの軍歴】
陸軍中尉 秋山作太郎
明治二十八年十月一日生(日清戦争終戦の年)

大正4年12月1日 徴集 砲兵一等兵(20歳)
大正5年12月11日 陸軍砲兵工科学校入学
大正6年11月30日 同校卒業 砲兵伍長
大正7年11月8日   砲兵軍曹
大正15年12月1日 砲兵上等工長
昭和11年6月26日 砲兵少尉(41歳)
昭和11年6月29日 予備役(日本火薬に火薬専門技師として勤務)
昭和16年11月24日 臨時招集・応召(46歳)
昭和17年2月28日 門司港より台湾の高尾、カンボジア・プノンペン、シンガポール、ベトナム・サイゴン、フィリッピンのマニラ—セブ島—ネグロス島バコロド—バナイ島イロイロを移動・転戦。
昭和18年8月30日 受傷のためバナイ島イロイロ陸軍病院入院
昭和18年9月15日 陸軍中尉(48歳)
昭和18年10月20日 治療のため門司港帰国・小倉陸軍病院収容
昭和19年8月31日 退院後・招集解除(のち日本火薬に復帰)

以上が、20歳から49歳まで約30年間、職業軍人であった我が祖父の軍歴であるが、ご覧の通り一等兵から中尉まで叩き上げで昇官した人であった。砲兵いわゆる砲工隊の隊長で、砲撃する敵地の距離までを算出し、そこから、砲門の角度、砲弾の火薬量、着弾してから爆発させるのか、空中で爆発させるかによって弾頭の火薬の調節を指示、〝撃て〟の発射の号令をかけるのが役目である。砲弾の火薬の調整は弾頭を回すことで調節できるのだと、宴席でほろ酔いの祖父さんから聞いたことがある。砲撃、砲弾、火薬のスペシャリストで職人と言って良いかと思う。故に、退役してからも日本火薬の技師を務めていた。

第二次大戦で予備役から応召、門司港を出発してからフィリッピンまでは戦闘がなく、アルバムに残る高尾、プノンペン、シンガポール、サイゴンの写真には、アンコールワットを訪ねたり、サイゴンの競馬場や動物園、観光名所を巡っているなんだか楽しようなものが多い。その中の数枚には現地の麗しいお姐さんと一緒の写真もあるし、食堂の慰安婦と思しき和服姿のお姐さん達に囲まれた写真もある。これらの艶っぽい写真が収まったアルバムが堂々と自宅に保管され、今は孫の手にあるは、明治生まれの職業軍人が無敵である証拠である。

明治の頃から、軍人は遊びやファッションの最先端にあった。祖父さんの別のアルバム(残念ながら、こちらは従兄弟が所有している)には、アメリカ経由で日本に渡ってきたばかりの麻雀の大きな牌を自摸る祖父さんや、ビリヤードに興じる姿が写真に遺る。また、佩刀の軍服の上にチェスターコートを羽織った洒落姿の写真もあった。

祖父さんは、前述の謡をはじめ、詩吟・尺八も熟し、なかなかの芸達者で、酒に滅法強く楽しい酒で、宴席には引っ張りだこだったという。祖父さんから受けた教訓に「酒を呑んだ次の日はいつもより早く出勤しろ」というのがあり、これは一生懸命守った。祖父さんの逸話に「ある宴席でしこたま酒を呑んで酔っ払い、帰り道に田んぼの畦道に倒れ込んで寝てしまったが、早朝、目を覚ますやそのまま畦道から出勤した」というのがあるという。有言実行の人である。

大戦である。サイゴンまでの移動とは打って変わって、フィリッピン戦線は熾烈を極めた。アメリカ軍の猛攻撃の前に防戦一方である。特に砲撃する砲兵隊は敵の一番の標的である。集中攻撃を受ける中、敵の砲弾の破片が祖父さんの左手の親指、薬指、小指を吹き飛ばした。すぐに陸軍病院に運ばれたが野戦病院であるため、応急手当てしかできぬ。やがて治療のため本国送還となったが、帰国途中の船内では、負傷した3本の指にウジが湧いていたそうである。後年三本の指は第二関節から先が欠損したままであった。

しかし、祖父さんは指三本を失う程度で運が良かったのかも知れぬ。祖父さんが島を離れてからあと部隊は全滅してしまったのである。人生万事塞翁が馬である。

明るい性格の爺さんだったが、戦争から帰ったら、人が変わったように物静かに無口になったという。フィリッピンの熾烈な戦場から自分だけ先に帰り、その後部下達が無残に死んでしまったを受け入れるのは生中ではあるまい。また、退役して五ヶ月後の昭和20年1月11日、陸軍士官学校を卒業し、陸軍航空士官学校に入った長男が飛行訓練中の事故で死んでしまったことも、悲しみに追い討ちをかけた。

私は内孫として、祖父さん祖母さんにとても可愛がられた。私が三歳くらいの頃二人は日本火薬の火薬格納施設内の社宅に住んでいて、祖父さんが自転車で近くに住む我が家に私を迎えにきて数日を過ごし、また自転車で送ってくる。すると私は祖父さん家が良いと駄々をこねて、また祖父さんが自転車で連れ帰る。そして数日してまた同じことが繰り返され、祖父さんは何度も自転車で往復する羽目になった。今でも、昔ながらのでっかい自転車の後ろに座り、落ちないように祖父さんの腰をしっかり掴んで揺られている情景と、祖父さんのかすれた音の口笛と背中の匂いがはきっり記憶に遺る。

爺さんの家の玄関脇には、狐が二匹と狸が二匹ぶら下がっていた。それは、爺さんが仕掛けた罠にかかった獲物四匹である。内臓が抜かれ、目はガラス玉に、口の部分には金具が付けられている。足は四本付いたままだ。冬の寒い日に、この狐だか狸をその日の気分で首に巻き口の部分の金具を尻尾に挟むと襟巻きになる。胸の前に狐か狸の顔と尻尾が、足も四本肩辺りから垂れ下がるという、なかなかシュールな姿だが、これがとても暖かい。それはそうだ毛皮であるから。冬の自転車の荷台から三歳の私は狐狸の姿を眺めていた。

日本火薬を退職した祖父さんは、二世帯用の家を建て我が家族と同居を始めた。退職後の生活は典型的な晴耕雨読で、晴れた日は、近くの農家から借りた小さな畑で野菜を育て、雨の日は本を読むか、謡か、もしくは碁を打って過ごした。やがて、脊髄狭窄症を患い。寝たきりとなり、テレビで格闘技を観るのが楽しみだった。相撲、ボクシング、プロレス、中でも当時人気があったキックボクシングが好きで沢村忠の大ファンだった。

寝たきりでも酒は飲んでいた。八十八の米寿の祝いの宴席で、でっかいマグカップに並々と注がれた熱燗をストローでチューッと吸って飲んでいたが、確実に私よりも強く酔わなかった。

昭和60年の春、九〇歳で朝眠りから醒めず穏やかに逝った。

祖父さんの自転車の後ろで揺られていたあの頃を思い出すと、今に比べれば物は圧倒的になかったが、今よりも豊かで裕福であったと感じるのは何故だろう。

編緝子_秋山徹