令和七年 雨水
盛場の風景

そりゃ無くなるはずだ
キャベツばかりをかじってた
雨水_ここの所暖かい日が続くと思っていたら、週明けには寒気が戻るという。まさに「三寒四温」の気候である。
「三寒四温」はもともと冬のこの季節の言葉であったのが、最近は春先に使われることが多くなったそうだ。言葉も時代とともに使われ方が変化する。
三月も近づいてくると、そろそろ「春キャベツ」が出回る頃である。キャベツは年三回〝旬〟があるそうで、二月から六月のものを「春キャベツ」と呼び、葉が柔らかく瑞々しいのでサラダや浅漬けに良いそうである。
と、例年であれば八百屋の店先に春キャベツが並ぶのを楽しみにしていれば良いのだが、昨年末くらいから、そうは言っておれなくなった。なにせ一時期にはキャベツ1玉が千円近くまで高騰したのである。現在も半玉250円くらいはする。もはや高級食材である、というのは言い過ぎであろうが、年金生活者にとっては辛い。キャベツを前に呆然と店先で立ち尽くし♪雨がつづくと 仕事もせずに キャベツばかりをかじってた♪と、かぐや姫の『赤ちょうちん』の一節を思わず口ずさんでしまった。
『赤ちょうちん(作詩:喜多條 忠/作曲:南こうせつ)』
—前略—
雨がつづくと 仕事もせずに
キャベツばかりを かじってた
そんな生活が おかしくて
あなたの横顔 見つめてた
あなたと別れた 雨の夜
公衆電話の 箱の中
ひざをかかえて 泣きました
生きてることは ただそれだけで
哀しいことだと 知りました
いまでもときどき 雨の夜
赤ちょうちんも 揺れている
屋台に あなたが
いる気がします
背中丸めて サンダルはいて
一人でいるような気がします
今や貧乏人は、仕事もせずにキャベツばかりをかじることさえできなくなった。
この詩を書いた時、喜多條忠は27歳、「生きてることは ただそれだけで 哀しいことだと 知りました」は老成のしすぎか。同じく喜多條が作詞して、かぐや姫が歌い大ヒットした『神田川』の中に、「何も怖くなかった ただあなたの優しさが 怖かった」も、若い時よりも、齢を重ねた今の方が味わい深い。
歌には、作詞した本人の年齢や経験則に関係なく、天から降ってきたようなものが時々ある。岡林信康が『山谷ブルース』を山谷で歌った際、山谷のおっさんから「兄ちゃん、あんまり疲れるなよ」と言われた、というエピソードがある。
『赤ちょうちん』の歌詞の中には、時代の流れを感じるものがもうひとつある。
最近、東京でめっきり屋台を見なくなった。
屋台考
私が最初に屋台に出会ったのは、小学生の低学年であるから昭和30年代の後半から四十年代の前半(1960年代)頃か、子供向けのおでんの屋台であった。おじさんが玉子やがんも、大根、こんにゃく、ちくわといった具を長い串に刺して売る。『おそ松くん』のちび太が手にしているアレである。確か十円くらいではなかったか。この屋台は1カ所に定まっているのではなく、常に移動していた。そのほかに、むかしは子供専用のお店屋があり、鉄板でお好み焼きや焼きそばを作っていた。こちらはオバアちゃんがやっていた。
次は、ラーメン屋台である。これは高校生の頃よく学校帰りに食べた。こちらは繁華街にしかいなかったと思う。我が郷里小倉のラーメンは「豚骨スープ」で、博多や熊本の豚骨よりも独特の匂いがきつい。旨くて人気の屋台は百メートル以上離れていても、あっ今日も出ているなと分かるくらいである。そして、なぜか小倉のラーメン屋台には酒を置いてなく。その代わりに〝おはぎ〟が山のように積んである。謎である。しかし、九州のどこよりも濃厚な小倉の豚骨ラーメンとおはぎの食べ合わせは、なぜか旨いのである。濃厚同士で胃が中和されるのか。しかし、今となっては私を含めた年寄りは、この組み合わせは避けた方が良いだろう。多分、胃もたれが1日では治らぬ。
ずっと後になってであるが、小倉にはカクテル専門の移動式バーのような屋台もあった。こちらはテレビなどでも紹介されて有名になった。
東京で初めて食べたラーメン屋台も思い出深い。大学受験で上京し、試験のあと疲れてホテルで寝てしまい夕飯を食べ損ねて、ホテル近くに出ていた屋台に駆け込んだ時、出された薄茶色で黄色い縮れ麺の醤油ラーメンを初めて見て、「これ何ですか」と聞いてしまい、屋台のオヤジに「ラーメンだよっ」と怒鳴られた。小倉から来た少年にとって屋台のラーメンは豚骨ラーメン以外知るはずもなかった。
海外の屋台も思い出される。ニューヨークのガイドブックに載る有名な屋台のホットドッグは旨かった。バンズとソーセージのパリパリ加減とサワーオニオン、ピリ辛のソースの組み合わせが絶妙であった。フィレンツェでは、中央市場の近くに出ていた屋台である。トリッパという牛もつの煮込みをパンに挟んで渡される。持病の痛風もなんのその、ビール片手にかぶりつく幸福ったらなかった。バンコクの繁華街の通りは屋台で埋め尽くされている。パッタイや麺の屋台に混じって、ゆでた練り物の屋台、昆虫の佃煮がてんこ盛りの屋台、ニンニクの効いた何だかわからぬ肉の串刺だがやたらとビールに合うのを売る屋台などなどが延々と続く。素面ではとても食う気にはならないような代物を、頭が痺れるくらいに酔っては食った。
私が最後に東京の屋台に行った記憶は、二十年ほど前になるだろうか、とある有名な神社の参道前に出ていたおでんの屋台である。友人たちとそこそこに呑んでから立ち寄ったのだが、酒もそんなに進んでいないのに、屋台のオヤジの顔が〝もののけ〟にしか見えなくなり、神社の前と言う場所も場所だけに、ゾワゾワと寒気がして友人たちよりも一足先に帰った。それが最後であった。それ以降屋台で呑む機会がなかった。
かぐや姫の『赤ちょうちん』を口ずさみながら、そういえば東京の屋台はどこに行ってしまったのだろうと、ふと思った。キッチンカーに取って代られたのか、しかし、キッチンカーは昼間のもので、夜はまだまだ屋台のものであろう。深夜に屋台でぐだぐだ一杯呑み納め、という呑み方が無くなってしまったのか。
調べると、都内で屋台を始める場合、都の福祉保健局・保健所への届出・申請が必要となっている。「移動営業(引車)許可申請」であるが、この申請手引によると、調理の工程が簡単で加熱処理に限り、刺身などの生ものや米飯類・生クリームなどは取り扱い不可となっており、取り扱いは「おでん、焼き鳥、焼き貝、イカ焼き、たこ焼き、お好み焼き、ラーメン、焼きそば、今川焼き、焼き餅」のいずれか一品目に限られるとある。したがって、おでんとラーメンを同時に提供することはできない。また、前述の小倉のカクテル屋台もできない。江戸時代、寿司は屋台が主であったがこれもダメ。落語の『時そば』も現代ではあり得ない。
と、ここで素朴な疑問が生じた。あれっ酒類販売の記載がないぞと、そこで、申請先の保健所に電話で問い合わせした。返答は、取り扱い品目にある一品目に限るため、酒類販売は不可であるということであった。そう、現在は屋台でおでんや焼き鳥、ラーメンを提供しながらビールや日本酒は出せないのである。「酒抜きでおでんや焼き鳥を売れ」は、屋台にとって致命傷である。
保健所の担当者の言葉に都内の屋台が壊滅した理由をみた。彼は言った「引車(屋台)の営業は、衛生上の取り扱いが不十分になりやすいため、現在では固定店舗や自動車(キッチンカー)への変更を勧めています。屋台は減らしていく方向にあります」と。何のことはない、東京都が屋台を根絶やしにしてきたのである。
これからの世は、せいぜい離れたキッチンカーから見下ろされて、スチールの椅子に座ってビールを呑むだけで、屋台のオヤジと向き合いながら、ぐだぐだ愚痴をこぼして酔い潰れるなんて風景はなくなるのである。
編緝子_秋山徹