我がエロス 其の壱
禁断のオママゴト
ヰタ・セクスアリス①
美学と下半身
齢を重ね、人生の終焉が近いと感じると人は我が身を振り返るものなのだろうか、振り返ると私自身としては自分なりの美学を持ち、それに従い生きてきたつもりである。
美学とは、衣食住及び日々の生活における己の生き方の指針である。
そこに一貫性を持って初めて美学となると思うのであるが、一貫性というのは頑固にそれに固執し意固地になるというものでもない。
経験則を積み重ねて、方向を違えるのも厭わない柔軟性を持つことも、美学の一貫性を保つことに大切である。
この匙加減が一番難しいことなのかもしれないが。
と、私なりの美学についての考えだが、私を形成する上でおのれの考える美学とは全くと言って良いほどかけ離れているのが、下半身の問題である。
下半身となると、私の思考は谷崎潤一郎の『刺青』の「それはまだ人々が愚という貴い徳を持って居て—」に限りなく惹かれ本能のなせる愚行とも呼ぶべき出来事が並ぶ。
中には下半身の問題についても立派な美学を貫いている方もいらっしゃるであろうが、私のこれまでの下半身は美学とは程遠い出来事で成り立っている。
これらは、美学は一体どこに行ったというような恥晒しな出来事が積もり重なっている。
私には明らかに幼児の時の記憶というものが四つある。
其のひとつは一歳になる前くらいであろうか、父親が馬になりそれに乗ってキャッキャと喜んでいる記憶である。それも父親が仕事に行く前の朝であったことまで覚えている。
ふたつめは、二歳の頃縁側にタライを置いてその中で行水をしているところを写真に撮られたことである。
髪の毛を洗ってもらい泡だらけのその髪を両手で上に伸ばして角のような形にして遊んでいる姿を父親がカメラに収めたもので、母親や祖父母がそれを見て笑っていたのを覚えている。
これはそれが写真として手元に残っている。
三つめ、これは現在の私の姿からは想像もできないのだが、乳幼児の頃の私は優しい顔をしていたのか、女の子と間違えられることが多く、祖母や親戚の女性連中は私を〝べっぴんさん〟と呼んでいた。
風呂上りに、〝べっぴんさん〟と笑いながら私をバスタオルに包む祖母の姿を覚えている。
これまでの三つは、家族の笑顔の中の記憶であるが、四つ目はこれらとは全く異質の〝秘め事〟といったものである。
そして、ここから私のヰタ・セクスアリスが始まる。
三歳_まぐあい
これは私が保育園に通う前のことであるから、三歳の頃だと思われる。
その当時の私は、道路を隔てた斜め前の家の同い年の女の子と毎日オママゴトをして遊んでいた。
女の子の一家と私の家族とは父親同士仲が良く、休日には我が家で祖父を交えてたびたび三人で酒を呑んでいた。
オママゴトの場所は家の中もあったが、もっぱら塀と家の隙間であることが多かった。
二メートルほどの高さのブロック塀と家の間のほんの一メートルほどの幅のあまり陽のあたらぬ薄暗い隙間は、私と女の子の二人だけの場所であって、幼いながらも秘密の匂いを感じる場所であった。
ここに茣蓙(ゴザ)を敷いて毎日オママゴトをしていたのである。
そんなある日二人ともオシッコがしたくなった。
ブロック塀の脇には雨水用の細い側溝があったので、私はオチンチンを出して放尿した。
が、女の子を見るとしゃがんで側溝に向かいオシッコをしている。
この時初めて男の子と女の子のオシッコのやり方の違いに気がついた、と同時に、私のオチンチンは出っ張っているが、女の子は凹んでいる。
それからどのくらい時間が経ったのかわからないが、私は女の子に覆いかぶさってオチチンチンを女の子のアソコに押し付けていた。
オシッコから二人が重なり合うまでの記憶は全く無い。
全くの本能がなせる技なのか—
その日以降、オママゴトはそこそこに、気持ちが良いので毎日、女の子と家と塀の隙間にゴザを敷いて重なり合っていた。
重なり合っている時、女の子の方はわからないが、私の小さなオチンチンはオシッコがしたくなる時と同じように硬くなっていた。
この秘め事のような遊びがどれくらい続いたのか、ある日、この重なり合う姿を祖母に見られてしまった。
私と女の子は訳もわからず飛び上がるように離れ、一目散に駆け出した。
意味もわからず、見られてはいけないものを見られたということが子供心に湧き立ったのであろう。
その事があってから少しして、ある日女の子と私はその時使って居たゴザが互いに自分家のものであると譲り合わず、女の子の家の前でひどい喧嘩をした。
それからしばらくして、女の子の一家は引っ越して行き、その女の子に二度と会うことはなかった。
いま想うと、ゴザの取り合いの喧嘩の余韻で私との良からぬ遊びまでを親に話したのではなかろうか。
その後、私の家族との話し合いもあり(——祖母が目撃していることもある)女の子一家が引っ越して行ったのが真相ではないかと思っている。
それほど一家の引っ越しは急であったような気がする。
挿入と射精を伴わなくとも、ヴァギナとペニスを合わせることがセックスと呼べるのであれば、これが私の一等最初のセックスであった。
その後は相手もいなくなり、次第にこの気持ちの良い遊びのことを私は忘れはしなかったが、他の女の子とやろうとは思わなかった。
薄ぼんやりと他の女の子に同じ事をやってしまうと、大変なことになりそうだという気がどこかにあったようだ。
ただしずっと後まで、とりあえずこれがセックスもどきのものだとは思ってもみなかった。
小学校の高学年になりセックスという言葉が我々男子の間に駆け巡った時も、まさか幼い自分が毎日行っていたアレがセックスだとは想像だにしなかったのである。