令和六年 秋分
公安きたる
ナイスガイの本性
鰯の雲
秋分_秋真っ盛りと言いたいところだが、猛暑日という季節にそぐわぬ名の日が続いている。観測史上最も遅い記録だそうである。
あまりの暑さでか、秋の彼岸の中日というのに、彼岸花・曼珠沙華が咲かぬ。例年この時期には、近所の道端を真っ赤に染めているのに、今年は小さなのが一・二本咲いているだけである。
また、猛暑日の予報が出ると保育園児が河川敷に遊びにこない。園児の嬌声を聞くのを日々の楽しみにしている身には寂しい。
季節通りなのは雲である。朝方に鱗雲が朝焼けに朱に染まっているのが美しかった。
秋の雲は、鰯(いわし)雲、鯖(さば)雲、鱗(うろこ)雲である。大空にポカリと浮かぶ塊の雲でなく、空を覆うように広がる繊維状の雲。気象用語で巻積雲(絹積雲)、シーラスと呼ばれるものである。夏が過ぎて秋になる頃には空気が澄んで空が高く感じる。空いっぱいに広がる雲を魚に例え、大空を大海に見立てるのが日本人の感性である。
群れなして秋空を泳ぐ鰯であるが、本来は下等な魚とされていた。そのため「いや(卑)し」が訛って「いわし」となったという俗説がある。また足が早く弱い魚なので「よわし」が転じて「いわし」となったという説もあり、魚偏に弱と書くのはそのためであるという。
鰯は弱い魚ではあるが、必須アミノ酸をバランスよく含み、不飽和脂肪酸のEPAとDHAを含む脂質が14%と豊富で、ビタミンB群、カルシウムも含むと栄養分に優れており、かつ、滋味のある美味しい魚であるが、昔から大量に獲れるため軽んじられてきた。
江戸時代に編纂された『和訓栞(わくんのしおり)』には、紫式部が鰯を食べて、その美味しさにまた食べたいと願っていたが、当時の貴族社会では下等魚である鰯を食べるのは憚られていたため、なかなか叶わなかった。ある日、夫の藤原宣孝が外出している時を狙って念願が叶い食べることができた。しかし、帰宅した夫にその匂いでバレてしまう。叱責する夫に紫式部は、
「日の本に やらせ給ふ いわしみず
まいらぬ人はあらじとぞ思う」
(日本人なら石清水八幡宮にお参りするのと同様、鰯を食べない人はいない)
と歌を詠んだという。
この逸話から鰯のことを女房言葉で「むらさき」と呼ぶようになったとある。この話は『猿源氏草紙』には和泉式部の逸話となっている。どちらにしても、鰯のように滋養に富み美味い魚をいやしんで食べぬという、スノッブな貴族社会を嗤ったものであり、鰯に限らず謂れなき中傷に対する抗いの現れだろう。
鰯を「紫」と呼ぶのは「鮎に勝る」が「藍に勝る」〝鮎〟が〝藍〟に転嫁した洒落からだという説もあるという。
人知らず埋もれている価値のあるモノ、不当に評価の低いモノの本来の価値を知らしめることは、メディアの仕事であるという思いで雑誌の編集をやってきたつもりであるが、今振り返って果たして多少の成果があったのかどうか自信はない。
世の中には鰯のように元々そのものに実力と魅力があり、それが正当な評価を得ていないという事例もあれば、その逆もある。たいした能力もないのに重用されるモノ、というのがたまにある。これは人に対する評価に見られ、なぜあの人があのポジションにということがある。出世するにはそれなりのコミュニケーション力が必要で、それも立派な能力であると言われればそれまでであり、だから人間社会は面白いとも言える。
げに、人の本性はわかりにくい。
テロってあのテロ
何度かこのコラムに、以前イタリアはフィレンツェの免税店の日本事務所をやっていたことを書いた。
店に働くスタッフは、日本人の女性スタッフが大半であるが、イタリア人オーナーの他に外回りの営業が二人ほどいた。営業の二人はイタリア人だったが、その一人が辞めたときに一時的にFというチュニジア人がいたことがある。Fを雇った経緯はよく分からなかったが、人当たりが良いのと、英語が流暢に話せ、イタリア語もある程度理解できたことが理由であったようだ。
私もFには現地で二度ほど会った。感じの良い男であったが、一年ほどして辞めたというのを聞いた。
辞めたというのを聞いてから程なくして、彼から突然電話があった。電話は日本の携帯の番号からであった。いま東京にいるので会わないかという連絡だった。数日後に事務所近くの表参道でお茶を飲んだ。聞くと日本人女性と結婚して来日したばかりだという。確か世田谷だったと思うが、彼女の実家に同居をしていて、ついては仕事を探しているのでどこか紹介してくれないかという。私にそんなツテはないので、ここはきっぱりと断り、何かあればまた連絡を、と言って別れた。仕事の当てが全くなく来日したのかと面喰らったが、これが私にはない行動力かとその時は思った。Fは相変わらず気の良い様子で、仕事を紹介しろといった時も押し付けがましい様子もなく、不快な気分にはならなかった。
それから三年ほどして、西麻布のわが事務所に刑事が二人訪ねてきた。一人は公安、もう一人は警察庁の刑事だと名乗りバッジと共に名刺を出した。公安の刑事というのに初めて遭遇したのでマジマジと見てしまった。二人は対照的だった。主に話すのは警察庁の刑事で割とフランクに穏やかに話をする。公安はというと表情を変えず、必要以外のことは話さなかった。
私を訪ねた用件は、ある男がテロ組織に関係があるのではないかということで、コウカク(行動確認)・監視をしていたが、数日前に急に姿を晦ました。部屋にガサ入れをしたところ、貴方の名刺が出てきたので訪ねてきたという。話とともに男の顔写真をコピー用紙に引き伸ばしたものを示し、名前をFというチュニジア人だと告げた。
私は、頭髪の薄い見知らぬ男の顔をマジマジと見たが覚えがなかった。私の名刺を持っていた理由も全くわからないと答えた。私の返答と表情などから全く関係がないと思ったのか、顔写真のコピー用紙を残して二人の刑事は帰っていった。
「公安!テロ組織!」と予想外の現実離れした展開とキーワードに私の頭は混乱していたが、二人が帰ってからしばらくして「チュニジア人のF」という言葉に、ああ、あのフィレンツェの営業のFかと思い当たった。
しかし、あらためて顔写真のコピーを眺めると、確かに面影はあるものの、三年ほどで人の顔はこんなに変わるのかというほどFの顔は変貌していた。フサフサしていた髪は見る影もなくハゲ上がり、目つき顔つきがガラリと悪い方へと変化していた。これでは私がすぐには思い出せなかったのも仕方がなかろう。
すぐにもらった名刺の番号に電話すると、例の公安の刑事同様の冷静で鋭い声が応対し、本人不在であるという。よければ要件を聞くがというので、コウカク対象者の件で訪問があったこと、容貌が変化していてその際には思い出せなかったが、思い出したので電話したと告げ、Fのことを知っている範囲で伝えた。訪ねてきた公安から折り返しの連絡があると思っていたが、その後何の音沙汰もなかった。もしかしたら、念のため私もコウカクされるのかと思ったが、テロ組織とは全くの無縁であるので気に留めなかった。しかし、良い気持ちはしなかった。
それからまた一年ほどして、フィレンツェの現地に赴いた際、店の古株の女性が「最近Fがフィレンツェに戻ってきたんですよ。日本人の添乗員の子と結婚したけど、すぐ別れたみたいで、戻ってからは毎日チュニジア人同士でフラフラして仕事もしていないようなんです。まあ。それだけだったら、そんなアフリカ系はたくさんいるんでどうでもいいんですけど—」「でもね、月に一・二度大きなアタッシュケースを抱えて銀行に行くんです。その時はビシッとスーツを着て、やっぱりスーツ姿のボディガードみたいのを二人くらい引き連れて、そして次の日には普段のラフな格好に戻ってるんですよ、アタッシュケースには大金が入っているようだし、どう見ても怪しいでしょ」「店の子みんな、テロかなんかと関係があるんじゃないかって、気味悪がっているの」
この話に私は公安がやってきたあの日を思い出した。
帰国して、迷ったがFの現況を伝えるべく公安に電話した。当人はまた不在であった。掻い摘んで話をした後、電話に出た公安から後で当人から折り返しがあるかもしれないと言われたが。二十年近く経ったいままで折り返しの連絡はない。イタリア・フィレンツェに渡った時点で管轄外となったか、すでに情報は確認済だったのだと思っている。
公安の刑事の名刺は珍しいので長らく私の名刺入れにあったが、それから事務所を三度ほど転居した際に処分してしまった。
編緝子_秋山徹