令和八年 春分
すまぬ、幼子

才気の遊び
覚えまつがえ
春分/彼岸_お日様が真東から上がり真西に沈む日は、昼と夜が真半分となり、彼方と此方の境目のお彼岸である。その境に咲く花が桜である。
敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花 本居宣長
私は、日本人が信ずる倫理観や道徳観、恥の文化をもって日本人らしく生きるという志が、大和心という言葉に表されていると感ずる。
初春の趣の中、河川敷に保育園児の姿を見かけることが多くなった。心なしか彼らの〈嬌声〉も大きくなったような気がする。今日の日本に生きる彼ら幼児にも大和心が宿りますようにと願う。人種に関わりなく。
と、ここまで書いて、虫の知らせというか、何故(なにゆえ)か〈嬌声〉という言葉を調べる気になった。ほんに、今更であるが。
そして私はズズーんと奈落の底に落ちることになった。
まず三省堂の『大辞林』を開く。
きょうせい【嬌声】女性のなまめかしい声。——ゲッ、他の意味は全く書かかれていない。
次に白川静の『字通』である。
【嬌】①なまめかしい、あでやか、うつくしい、かわいい。②声や色につやのあること。③驕と通じ、たかぶる、おごる。
——〝かわいい〟とあることが、せめてもの救いか
用語例に【嬌声】は無いが、【嬌愛】愛らしい。【嬌逸】あかぬけしていて、愛嬌がある。【嬌客】花婿。【嬌鶯】よい声で鳴く鶯。【嬌児】かわいい幼児。
私はこれまで、「複数の人が無邪気に燥(はしゃ)ぐ声、歓声」どちらかというと喜びを共にした歓声に近いものとして〈嬌声〉という言葉を使っていた。〝燥ぐ〟と〝喘ぐ〟では全く意味合いが違う。
ああ、これまでこのコラムでも〈嬌声〉を使った気がする。恐る恐る過去のコラムを確認してみた。悪い予感というものは当たるもので、令和六年の秋分と立冬、令和七年の啓蟄と白露の計四回、いずれも「保育園児たちの〈嬌声〉」と書いてしまっていた。
私は、あろうことか、かわいい幼児【嬌児】たちの〝無邪気な歓声〟を、女性の〝艶かしい声〟【嬌声】と比喩していたのである。すまぬ。幼児たちよ申し訳ない。
おのれの無知を再び深ーく認識する爺いであった。
次は〝覚えまちがい〟と似て非なる〝言いまちがえ〟である。
言いまちがい
前の【嬌声】のような〝覚えまちがい〟は、単なる無知、誤認・誤りであるので、自身の自意識とは別物であるが、〝言いまちがい〟の中には、心の奥底にある潜在意識が言わしめるものもある。というのはフロイトの分析学説にある。一応、大学は哲学科を出ている私であるが、フロイトの分析学がスッと出てくるわけでは無い。
種を明かせば、この三日ほど三島由紀夫の中編『音楽』と巻末の渋沢龍彦の解説を読んだからである。
三島の『音楽』は、汐見和順という精神分析医の一人称で語られ
る。物語は、弓川麗子という不感症に悩む女性患者の診療の記録と汐見の所見の手記という形をとっている。
最初の診察で麗子は、「わたし音楽が聞こえないんです」と言う。彼女の言う〈音楽〉とは、性交渉におけるオルガスムスの比喩である。
互いに愛し合っている江上という恋人がいるが、恋人。との性交渉で「音楽」が聞こえないと思い悩んでいて、その肉体的症状として軽い顔面痙攣である頬のひきつり(チック)が出ていた。
二度三度と診察するうち麗子は嘘を繰り返し、汐見を翻弄しようとする。麗子の深層心理にある闇を感じ取った汐見は、根気よく薄皮を一枚一枚剥がすように麗子に対する。
やがて麗子は、実兄に性器を悪戯されたこと、その兄と叔母の性行為を見てしまったこと、又従兄弟で親が決めた許婚者の〝俊ちゃん〟に無理やり犯されてしまったこと、などを告白する。
やがて許婚者の俊ちゃんが末期癌で入院したのを知ると、麗子は故郷に戻り、許婚者を一心に介護する。この時、死にゆく許婚者の病床で「音楽」を聞く。
許婚者の死後、旅に出た麗子は、旅先のホテルで花井という性的不能を苦に自殺を考えている裕福な家の青年に邂逅する。二人は東京に戻ってから都内のホテルで同棲をするが、ここでも性的不能という不幸な男を前にして、またも「音楽」を聞く。
これらの出来事は、汐見には事後すぐに報告される。
この一連の行動に、麗子の中にはこれまでの分析で知るよりも、もっと深い闇があると感じていた汐見に麗子は、大学生時代に失踪中の兄と東京で会い、兄のアパートで、それも兄の愛人の前で犯されたという衝撃の事実を告白する。しかも、それが屈辱でありながらも、微かな幸福感さえ去来したという独白に汐見は麗子の不感症の奥深い本質を見出す。
この独白以降、麗子は江上と平穏な日々を過ごすが、「音楽」は江上とは未だ聞こえない。汐見は麗子の「不感症」は、兄と対決する他はないことを麗子に伝える。今の平穏な日々も、何か些細な衝撃で木っ端微塵になることを麗子も理解していた。
そんな中、兄の居場所が山谷であることが、ひょんなことから知れる。山谷に向かう汐見や麗子の一行。そして、山谷で街娼との間に出来た子を負ぶった見るからに見窄(みすぼ)らしく落ちぶれた兄と対峙する。
この時「その赤ちゃんの妹さんが—」と、麗子が〝言いまちがい〟してしまい、異様に狼狽してすぐに「その赤ちゃんのお母さんが—」と言い直す。この時、麗子と共に汐見は「不感症」の本質に行き渡る。
麗子は実兄との汚辱に塗れた不道徳な行為を、神聖なものにするため、兄との子を宿す、さらには、兄そのものを自らの子宮に入れるという「無原罪の母胎」を作り出そうとして、兄以外の子を生むことを拒むという心理が深層にあり、それが「不感症」を生み出していた。その無意識の心理が「その赤ちゃんの妹さんが—」という〝言いまちがい〟を引き起こしたと麗子と汐見は悟ったのである。しかし、兄には街娼に産ませた赤ん坊がすでにいたという事実に直面し、麗子はもう自分が「無原罪の母胎」を維持する必要がないことを悟る。
この後、麗子と江上はめでたく「音楽」を聞き、夫婦となる。
というのが、三島由紀夫の『音楽』の大まかなストーリーである。この小説には、フロイトやユング、ハイデッカーなどの心理学者や精神病理学者の学説・理論が汐見の言葉として平易に鏤(ちりば)められている。三島由紀夫の圧倒的な知識量が垣間見れる。
しかし、これとて渋沢龍彦に言わせれば「三島が自分の主流に属する仕事のかたわら、ときどき見せる才気の遊びともいうべき、よく出来た物語の一つであろう」となるそうである。さすれば、その辺の小説家の立場はどうなるのであろう。
実は、輪廻転生とタイ・バンコクが主題・舞台である『暁の寺 豊穣の海(三)』をコラムの参考資料として読み始めたが、三島由紀夫が割腹自殺直前に書き上げた渾身の作品の一行一行の厳格無比な修辞に圧倒されて、読み進めることができず。三島の他の平易な作品をと選んだのが『音楽』であったが、これにも木っ端微塵に圧倒されてしまった。
おのれの力不足を日々反省する今日この頃である。
今回のコラムでは、誤字、誤用のありませんように。
編緝子_秋山徹













































































































































