1. HOME
  2. 24節気に想ふ
  3. 令和七年立秋

令和七年立秋

2025年8月7日 ~ 2025年8月22日

野茂の勲章

ミルキーウェイ/MILKY WAY

天空の河

立秋_暦は秋となった。親爺の戸惑いを尻目に季節は歩みを進める。

節気の二至(夏至・冬至)二分(春分・秋分)四立(立春・立夏・立秋・立冬)は季節の節目であると同時に、冥土への歩みでもある。
「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
一休禅師の狂歌がわが身に落ちる。

若い頃は、季節の移ろいや花鳥風月なんぞ無視して生きていた。季節を感じるのは着る物の変化ぐらいのものか。随分ともったいないことをしたと思うは齢を重ねた証拠であろう。

タイなどの常夏の国に行くようになると、季節が一定して良いなと思うよりは、日本のように四季があるとそれぞれに楽しみ方があることに感謝するようになる。旅の良いところである。

明治となり日本の暦がグレゴリオ暦の新暦に移行してから、大陰暦の旧暦で設定された二十四節気は、新暦との差が約一ヶ月以上ずれてしまった。

例えば七月七日の七夕は、旧暦を現在の新暦に換算すると、今年は八月二十九日となる(毎年日にちが変わるのがややこしい)。
新暦の七月七日の時期は、梅雨の最中であるため曇りとなりがちなため「天の川」を見ることができないことの方が多い。実際、今年も天の川は見えなんだ。今回も織姫と牽牛は会えなかったかと心配になる。しかし、本来の暦の八月中旬頃であれば、夜空は晴れ渡り天の川もくっきりと現れる。一年に一度、待ちに待った二人の逢瀬は旧暦の七月七日に行なわれると信じよう。

中国では、鵲(かささぎ)が架けた天の川を織姫が華麗な車に乗って渡るとされている。しかし、日本では牽牛が船で川を渡るとされる。これは、日本の婚姻が夫が妻のもとに通う妻問婚(つまどいこん)であることからだという。妻問婚を表すものとして平安の世から「流れ星」は「夜這(よばい)星」と呼ばれた。これは、夜空を流れる星を、夜、せっせと妻や愛しい人のもとに通う男たちに見立てたものらしい。男たちは女に気に入られるために歌を詠み、文を認める紙やそれに芳しい匂いを移す香(こう)を選び、女の元に通う際の装束の袷の色合いに心を砕いた。この平安の貴族の暮らしを羨ましいと思うは私だけではあるまい。

夜空に散らばる星を川と見立てたのは、日本人だけではないようで、古代エジプトでは「天上のナイル」、バビロニアで「天上のユーフラテス」、中国が「天河」、ギリシャ神話でヘラクレスが赤ん坊の時に、母神ヘラの乳を強く吸いすぎたため、母乳が迸(ほとばし)って川となった逸話が英語の「ミルキーウェイ」の語源となったという。

この季節の流れを無視するものに天変地異がある。
先週の七月三十日(水曜日)朝8時24分、ロシア極東のカムチャツカ半島の東方沖でマグニチュード8.8の巨大地震が発生し、遠く離れた日本の太平洋側沿岸全域に津波警報・注意報が発令された。この発令が解除さたのは半日以上が経ってからであった。

イチローの感謝

私の棲まうマンションの前には多摩川が流れ、河川敷にグランドが連なる。ベランダから見ることのできる川上の右端に高校のラグビー兼サッカーグランドがあり、川下の左端には大学の野球部のグランドがある。この二つのグラウンドの間には六つの野球グランドがある。区が貸し出しをしていて、高校のグランドから並ぶ二つはシニアクラブが長期的に借り受けているようで、同じユニフォームの球児たちが、この夏休みに毎日練習している。あとの四つは週末などを中心に練習や試合をやっている。

二つのクラブチームのうち、ひとつは部員30名ほどで和気藹々とやっている雰囲気であるが、片方はというと、都内でも有力なチームなのかシートノックの際ひとつのポジションに4名から5名がノックを受けており、50名弱の部員が居そうである。また練習に緊張感があり、ストレッチののち声出し連帯歩調のあとキャッチボールに入る動作の流れが統制されているのである。

さて、カムチャッカ半島沖地震の七月三十日である。10時頃にけたたましくサイレンが鳴り、大田区から大音量の放送があった。
「津波警報が発せられましたので、速やかに川から離れてください」
さっそく高校のラグビー部と大学の野球部が、次にグランドで試合をしていたチームとひとつのシニアチームが練習を切り上げ、着替えて河川敷のグランドを後にした。

しかし、有力シニアチームは練習を止める気配がない。よく見るとチーム内の紅白試合をやっているようである。まあこれが一区切りつくまでやる気なのだなと思ったが、それが終わって通常の練習に入った。時間はやがて12時になろうとしている。正午にはグランドに誰もいなくなった。切り良く午前中までとしたか。ところが、昼食が終わったと思しき時間に、なんと練習が再開された。結局、通常通り15時頃まで練習は続き終わった。

この間、大音響のサイレンと津波警報の放送は30分おきくらいに続いていた。このクラブチームの指導者は、これを一切無視して通常通りの練習を行なったのである。当然カムチャッカ半島沖というはるか遠方の地震であるというのは、スマホか何かで確認して津波の心配は無いと判断したのであろうが、子供たちを預かる責任者としてあるまじき行為である。区の施設・河川敷のグランドを借りる中にもルールというものがあろうものだ。それを蔑ろにして練習をすることは厳しさでもなんでもない。野球というスポーツのルールは遵守しても、公共のルールを守らないでは、子供たちに悪影響である。野球の技術以上に示すべき手本があるはずだ。将来この球児たちが同じような指導者にならないことを祈るほかない。

野球界でルールを破ったのではなく〝ルールを越えた〟のが野茂英雄である。1990年に近鉄バッファローズでデビューした野茂は、その個性的なトルネード投法で三振の山を築き、平成初の投手三冠王(最多勝・最優秀防御率・最多奪三振)となった。その後も4年連続で最多勝のタイトルを取るなど成績を残したが、球団首脳や鈴木啓二監督との確執から契約がこじれ、1994年オフに任意引退選手となる。この時日本球界では、任意引退選手は国内のNPBでは近鉄以外ではプレーできなかったが、アメリカのMLBでは拘束が及ばずプレー可能ということで、ロス・アンジェルス・ドジャースと契約。1995年5月2日に対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦でデビューしその後、野茂マニアと呼ばれる熱狂的なファンが現れるほどの好成績を残し、その年の新人王を獲得した。

当初、野茂のMLB挑戦に対して古巣の近鉄球団や日本球界、マスコミはこぞって野茂をバッシングしたが、野茂の活躍を見るや見事に掌を返した。

野茂は、その類稀なる投法と同様に己の自我を貫き、MLBで13シーズンを過ごし、ドジャース 以外の全29球団から白星を挙げ2008年引退した。野茂のMLB挑戦は野茂自身の成功のみならず。日本の野球選手のMLBへの道を開いたという功績も重要であり称えられる。野茂がいなければ、イチローも松井秀喜も大谷翔平もどうなっていたか分からない。一人の野球選手が球団や野球機構、マスメディアを敵に回し、彼らに従うというルールを越えて勝ち取った試合よりも大きな勝利である。

2025年7月27日、日本人・アジア人として初めてアメリカ野球殿堂入りしたイチローは、表彰式典のスピーチの中で野茂に触れた。

--そんな苦しみの最中に、歴史的な出来事が起こります。私が生まれて初めて目の当たりにした、日本人メジャーリーガーが誕生しました。野茂英雄さんです。彼の成功は多くの人を触発し、私もその一人でした。
野茂さんのおかげで、日本では常にMLBの話題が報道されるようになり、試合もテレビで放送されました。野茂さんの勇気のおかげで、私は突然開眼し、自分の想像すらしたことのない場所に挑戦するという考えを持てるようになったのです。
『野茂さん、ありがとうございました』

イチローは19分間に及ぶ英語のスピーチの中でこの部分だけは唯一日本語で語った。他の誰あろうたったひとり野茂英雄に向けたメッセージである。

日本野球のルールを越えた男、野茂英雄の勲章である。

編緝子_秋山徹