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平成八年 立冬

2026年11月7日 ~ 2026年11月21日

アンパンマン

スペシューム光線

浮浪雲

立冬_巡り巡って暦は冬となった。

比較的暖かかった十月、Tシャツなんぞで室内を過ごしていたら、十一月の声を聞いた途端冷えた。思わず暖房を入れてしまったが、六日には都心でなんと25度を観測し、まさに〈インディアンサマー〉となった。体が季節に順応するのに鈍感な爺いには気持ち悪いったらない。

日本の四季の暦は、〈二至二分四立〉を核とする〈二十四節気〉で表され、さらに五日単位の七十二侯に分かれる。明治六年、旧暦の12月2日が新暦の1月1日と定められ、新旧の暦には約一ヶ月のズレがおきた。これにより暦の二十四節気と実際に我々が体感する季節には隔たりができた。

しかし私は、この誤差が生じたことは季節を楽しむには良かったのではないかと思う。日本にはもともと季節を、その〝はしり〟〝さかり〟〝なごり〟で味わうという手法がある。〈二至二分四立〉の四立(立春・立夏・立秋・立冬)、例えば今節気の〈立冬〉は、暦で秋が終わり冬となった境目の日である。しかし一ヶ月の時差で実際には秋の〝さかり〟である。

我々は秋の〝さかり〟頂点に、暦によって、やがてくる冬に思いを馳せ、その〝はしり〟を感じる。少し早い冬の意匠が現わされた和菓子と抹茶をいただく時間が大変よろしい。また、秋の〝なごり〟の梨を買い求め、擦って焼肉のタレの中に入れて食べるのも、この季節だけの楽しみのひとつである。金のない寂しい隠居生活を送る爺いには、なんともささやかな幸せの時間である。暇だけはある爺いになって良かったと思える数少ない瞬間といえる。

暇な爺いだがテレビは見ない。確かなポリシーがあるからではなく、ただつまらないから。そもそもテレビそのものを持っていない(家人用のやつはあるが)。MLBの大谷の試合がネット配信で見られれば十分である。そんな私に、友人が少し古い情報をくれた。この1月にNHKで『浮浪雲』を放映してたというのである。別に観たいと思ったわけではない。実写『浮浪雲』は、1978(昭和53)年の私が21歳の頃に観ていた「渡哲也」版が良かった。今回何に驚いたかというと、この渡哲也版『浮浪雲』が放映されていた時、原作者の「ジョージ秋山」の年齢が33歳であったということだ。するとジョージ秋山は二十代の頃から『浮浪雲』を描いていたことになる。

『浮浪雲』の名通り、主人公は空にポカリ・ポカリと浮かぶ雲の如く飄々と幕末の江戸の街を生きる。しかし彼の行ないには気骨のある部分も見え隠れする。老荘思想のタオや禅の教えをも想起させる世界観を、二十代の若者が描いていたことに、今更ながら驚かされた。私の二十代といえば「おねえちゃん、あちきと遊ばない」どころではない。ギンギンギラギラに熱り焚けるただの陰獣であった。

表の権威の象徴

これも少し遅れて知ったのは、作家の村上龍が10月17日に74歳で亡くなっていたことだ。村上の『限りなく透明に近いブルー』は1976年度の芥川賞を受賞し、そのスキャンダラスな内容が、当時、社会的な話題となった。当時、十九歳の浪人生であった私にも衝撃的な作品であった。

文学的な完成度ということではなく、その当時、私の周りの友人たちや、取り巻く世界—ジャンキーと乱行の世界が、そのまま文学となり、なおかつ、芥川賞という表の権威の象徴のような賞を取ったからである。周りのジャンキーたちは異口同音に言った「俺たちの方が、もっと凄いことやってるぜ」と、此奴たちが解っていないのが、あくまでも小説であり文学であるということで、なにも村上龍が「俺が一番凄いぜ」と言っているわけではない。まあ、小説を読むという、まともな(?)ジャンキーの限界ではあるが。

私たちの頃の薬物といえば、「アンパン」であった。「アンパン」はシンナーやトルエンをビニール袋の底の端を下にして円錐形に入れたのを、鼻と口に当てて吸う形が、袋入りの〝餡パン〟を食べている姿に似ているので「アンパン」と名付けられた。

「アンパン」が中学生や高校生に広く流行ったのは、安価であったからだ。大麻やコカインや覚醒剤などは、中高生には高すぎるし、また、入手ルートもなかった。当時人気があったのは、〈G10〉という建材用のボンドで、ジャンキーに言わすと、吸うと柔らかく滑らかであるという。私の学校の仲間内では、実家が土建屋の奴が横流ししていて、入手に困ることがなかった。後年あまりに用途とは違う目的で購入されるので、メーカーが〈G10〉の成分からトルエンを除いてしまって製造したが、接着力が落ちてしまい。今度は土建屋が困ってしまったという話を聞いた。

高校時代、同級生が高校の近くでアパートを借りてそこから通っていたが、瞬く間に不良学生のたまり場となり、常に誰かしらが「アンパン」を吸っていた。その二階建てのアパートには10部屋あったが、1階に大学生がふたり住んでいる以外は、二階の1部屋に友人がいるくらいで、しかも空いている部屋には鍵もかかっていなかったので、使い放題だった。終いに近隣の不良高校生も来るようになり、「アヘン窟」ならぬ「アンパン窟」の様相を帯びるようになった。

そこで、私はというと「アンパン」はやらずに、彼らを観察していた。これが結構興味深いのである。ある日6人が車座になって「アンパン」をやりだした。するとひとりが向かいにいる奴に、手を縦横にクロスさせて突き出した。すると向かいの奴は「うぁー!」と唸り声を上げて苦しそうに倒れた。さらに最初のやつが手をクロスさせたまま、倒れた奴の左隣をターゲットにした。すると左隣の奴は手を広げ、その手を上下左右にかざす。すると今度は、手をクロスさせた奴が「ぎゃー!」と苦しそうに叫んで倒れた。「ほぅー」と見ていた私は、その後、「アンパン」にラリってその気になったスケバン2人に別室に誘われて、襲われて(?)しまった。

もとの部屋に戻り、素面に近くなった奴らに「さっきのは何?」と聞くと。手を縦横にクロスした奴は、ウルトラマンのスペシューム光線を放ったのだという。向かいの奴は、スペシューム光線が痛くて倒れてしまったと明かす。手を掲げていた奴は、おれはバリアを張って飛んできた光線を跳ね返したのだ。未熟な奴のスペシューム光線などは跳ね返してやるのだと胸を張る。スペシューム光線の跳ね返りを浴びた奴は、まだまだ修行が足りなかったとうなだれた。みな真剣ではあるが、「あはははは—」と笑うと、彼らも声を出して笑った。「アンパン」が介在していなければ、平和な光景なのだが—。

ある日の夜には、ひとりが窓から屋根に登り、屋根の上でぎゃ—ぎゃ—喚き出した。私たちは肝を冷やした。誤って落ちて大怪我で救急車でも来ようものなら、警察沙汰である。深夜であるので近隣の家から通報の可能性もある。幸いなことに彼は屋根から落ちることなく無事に戻り、近隣からの通報もなかった。屋根から戻った彼は号泣している。なんでも空からマリア様が降りてきて、「アンパン」は体に良くないからやめなさいと言ってくれた。ありがたい、ありがたいと泣きながら「アンパン」を吸う。お前マリア様の言うことは聞かないのかというと、「あ-」と唸りながら天井を見つめていた。この彼はその後、学校の技術の授業の時間に、目の前に置いてあったシンナーの缶を震えながら見ていたと思ったら、缶の中に手を突っ込んで口に当て、そのまま後ろにひっくり返って気絶した。やがて救急車で運ばれ、のちに精神病院に入院したまでは聞いたが、その後の音沙汰はなかった。

一度、死ぬ思いをしたのは、「アンパン」をやった直後の奴のバイクの後ろに乗った時である。二車線の道路を飛ばしていた時に、ゆくり前を走るバスが邪魔だった。すると突然友人は立ち上がり、思いっきりバイクごと体を路面側に倒して、反対車線に出て大きな弧を描きながらバスを追い越した。後ろに乗る私は、急に車体が倒れたかと思うと、目の前には路面が迫り、このまま車体ごと倒れるのではないかと背筋が凍った。後で思い返しても、二車線である。もし対向車がいたら、ふたりともお陀仏であった。その時、私は固く誓った。「アンパン」をやっている奴の運転するバイクには乗らないと。

一年ほどして「アンパン窟」はあっけなく無くなった。アパートを借りていた同級生が、バイクで〈G10〉を買いに行った帰りに転けて事故となり、バイクの荷台から路面に転がる〈G10〉を警察に見つからないように、慌てて道の側溝に投げ入れようとした時に、別の車に腕を轢かれてしまい大怪我を負って長期入院となった。アパートは解約され、友人の退去と同じくして空室にも鍵が架けられるようになったため、我々の居場所は無くなった。長期入院となった同級生は留年となり、復学してからも留年を重ね。もともと高校浪人していたこともあり、卒業した時彼は二21歳になっていた。

ふりかえれば「アンパン」に夢中になった連中の末路はろくなものじゃない。「アンパン」は脳を直接犯す。だから私はやらなかった。中毒者を見ていると一層やる気にならなかった。高校の時のことを書いたが、本当は中学の時の方が中毒者は酷かった。

子供の頃に、呂律が回らなくなり性格が変わっていく友人を目の当たりにして、彼らに教えられた。「薬物」に犯されると人間ではなくなると。

編緝子_秋山徹

これまでに想ったこと