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筒美京平 其の二

昭和歌謡_其の六十五

昭和歌謡ポップスの神様 作曲家・筒美京平先生を偲ぶ(其の二)

『また逢う日まで』
尾崎紀世彦

 

また逢う日まで

このところ、TVやラジオの音楽番組では、ひっきりなしに、現役のトップクラスのミュージシャン、文化人たちが、筒美先生の魅力を語りまくっていますね。特にサザンの桑田は、FMラジオの自分のレギュラー番組内で、彼が超熱愛する、【筒美京平作曲】大ヒット作品のメロディを、コロナ禍の状況や空気に合わせ、替え歌で唄いまくってましたっけ。

特にソーシャルディスタンスで、とてもじゃないが、3密必至のライブは開催できない、……その戸惑いや鬱憤を、尾崎紀世彦歌唱の、昭和歌謡の〝名曲中の名曲〟『また逢う日まで』(昭和46年3月5日発売/作詞:阿久悠)のメロディに乗せて、風刺していたのが印象に残りました。

ちなみに、この楽曲の歌詞ですが、阿久悠が書いています。……で、私は随分前に「はて?」と首を傾げてしまいました。何故(なにゆえ)に?? それは、阿久の歌詞にしては【あまりに解りやすい】からです。

彼の出自が「広告のプランナー&コピーライター」であるからでしょうか? 阿久悠が次から次へと大ヒットを飛ばしまくる、ピンクレディの楽曲群を例にとるならば、すべての歌詞が、私の感覚では、あざといコンセプチャル(企画意図、方針)ばかり、前に押し出されすぎているように思われましてね。平たくいえば、理屈っぽいんです。

時折、第三者に阿久悠の評価を聴かれるたび、「メロディ無しの、阿久悠の歌詞だけ読まされても、ミモフタモナさすぎて、味もソッケもない!!」とボロ糞に言い放ちます。

それは、同じ売れっ子作詞家でも、大学でフランス文学を〝かじった〟なかにし礼とは、みごとに対局です。なかにしの手による歌詞は、どれも朗読するだに、上質なポエムのごとく深い味わいが薫りましょう。

実例を示しますね。ちょいと話が筒美先生から離れますけれど、──『ざんげの値打ちもない』(昭和45年10月5日発売/作曲:村井邦彦)という、タイトルからして、もろコンセプチャルっぽい楽曲があります。 北原ミレイのデビュー曲であり、阿久悠が歌詞を書きました。

♪~あれは2月の寒い夜 やっと14になった時
窓にちらちら雪が 部屋はひえびえ寒かった
愛と言うのじゃないけれど
私は抱かれてみたかった~♪

この楽曲の数年後、同じく北原ミレイは、なかにし礼の作詞した『石狩挽歌』(昭和50年6月5日発売/作曲:浜圭介)を熱唱します。

♪~海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の やん衆が騒ぐ
雪に埋もれた 番屋の隅で
わたしゃ夜通し 飯を炊く
あれからニシンは どこへ行ったやら
破れた網は 問い刺し網か
今じゃ 浜辺で オンボロロ オンボロボーロロ
沖を通るは 笠戸丸
わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る~♪

あえてコメントはいたしません(笑)。

話を『また逢う日まで』に戻しまして──。この楽曲だけは、阿久悠お得意の【コンセプチャル】な臭気が、まったく漂いません。じつに不思議です。

筒美先生の追悼も兼ねて、あらためて、この楽曲の成り立ちを調べてみると、みごとに合点がいきました。つまりは、歌詞が【こう】なるまでに、若き日の阿久悠は、何度も何度も嫌気がさすほどに、担当プロデューサーに書き直しを要求された、という経緯があるんですね。

プロデューサーの要求は、歌詞をもっと「わかりやすく!!」「わかりやすく!!」……だったそうで。つまりは、私の阿久悠評どおりの認識が、プロの音楽関係者の間でも〝あった〟という、証拠みたいなものですね。

♪~また逢う日まで 逢える時まで
別れのそのわけは 話したくない
なぜか さみしいだけ
なぜか むなしいだけ
たがいに傷つき すべてをなくすから

ふたりでドアをしめて ふたりで名前消して
その時 心は何かを 話すだろう
また逢う日まで 逢える時まで
あなたは何処にいて 何をしてるの
それは 知りたくない
それは 訊きたくない
たがいに気づかい 昨日にもどるから~♪

皆さん、おそらくは鼻歌でスラスラと口ずさめちゃうでしょう、【この】歌詞に落ち着くまでのエピソードが、これ(↓)です。

元々、筒美先生は、某大手家電メーカーが発売するエアコンのCMソングを頼まれて、メロディを3曲、書きました。そのうちの1つに、アニメ『アンパンマン』の生みの親、、やなせたかしが歌詞を付け、榊みちるが唄ったのですが、これはスポンサーサイドの方針変更により、企画自体が消滅。

この楽曲の版権を管理していた会社に勤務する、某プロデューサーは、このメロディの惚れ込み、当時、『白いサンゴ礁』でブレイク中の、ズー・ニー・ブーの新曲に採用したのです。

作詞を依頼したのが、当時はまだ、さほど売れっ子でなかった、若き日の阿久悠です。阿久は、「安保闘争で挫折した青年の孤独」をテーマにした歌詞を付け、『ひとりの悲しみ』というタイトルで、昭和45年2月10日に発売されましたが、ほとんど話題になりませんでした。

♪~明日(あした)が見える 今日の終わりに
背伸びをしてみても 何も見えない
なぜか さみしいだけ
なぜか むなしいだけ
こうして 始まる ひとりの悲しみが

こころを寄せておいで
あたため合っておいで
その時 ふたりは何かを 見るだろう~♪

あきらめきれぬプロデューサーは、この楽曲のメロディを、カントリーバンド『ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ』のボーカル担当だった、尾崎紀世彦の【朗々たる力強い声質】で唄わせれば、「かならずヒットする!!」との確信を持って、阿久に歌詞を書き換えさせます。この事実が、上記した【歌詞をもっと「わかりやすく!!」「わかりやすく!!」】です。

プロデューサーの熱意の勝利といいましょうか、〝嫌々〟〝しぶしぶ〟書き直しまくった阿久の労苦もみのり、新生『また逢う日まで』は、たちまちオリコンチャートのシングル部門で、輝かしき第1位!! 100万枚を超えるレコードが、全国で売れに売れたのです。

(其の三に続く)

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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