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山口百恵
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

昭和歌謡_其の六十

妄想男のヰタ・セクスアリス(後編)

『横須賀ストーリー』山口百恵

『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

ヨコスカ・ストーリー

本人の名前が、超超有名なシンガーソングライターとまったく同じで、父親が、これまた超超有名な化粧品会社の常務だった……F美と、掛け値なしの童貞学生の私は、大学4年の12月、Xmasイブまで「あと数日」という、ギリギリのタイミングで、正式に「恋人として」交際を始め、舌入れべっちょりのキスを、生まれて初めて体験しました。

──で、Xmasイブの夜、です。F美は横須賀生まれ&育ちで、私が勘違いして「じゃあハマっ子じゃん」と言うと、すかさず、それも結構キツい表情で、「違う、ハマっ子は横浜でしょ。私はれっきとしたスカっ子よ!!」と、笑っちゃうぐらい大きく胸を張って主張したものです。

「スカっ子って、なんか音の響きがダサくない?」と、黙っていられず口にすると、それだけで泣き出してしまいました。純情といいますか、いささかオツムが緩いのかも? との疑問は、以来、彼女と別れるまで、ずっと私の意識の中から消えませんでしたけれど。

F美と付き合うまで、私の中の横須賀のイメージは、決して上品なものじゃありませんでした。米軍の基地もあるし、基地に働く外人連中が飲み歩く、通称「ドブ板通り」の【あの雰囲気、空気感は、古い邦画、特に日活アクション系を、高校時代から結構、観まくって来ましたので、勝手に【そういうものだ】と認識させられていました。

加えて、昭和歌謡史でみれば、横須賀を舞台にした大ヒット曲が、当時(昭和59年)までに2作品、ありましたからね。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの4枚めのシングル『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(昭和50年4月20日発売/作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)と、横須賀育ちのトップアイドル、山口百恵チャンの『横須賀ストーリー』(昭和51年6月21日発売)……です。

『港の……』を初めて聴いたのは、今でもよく覚えていますが、中学1年の時の、給食の時間でした。昼休みに放送委員の生徒が、当番制で放送室のPA卓(音声発信マシン)を操り、さまざまな楽曲を【生放送】で全教室に発信する……ことになっているのですが、たいがいは、教科書に出ているクラシック系の音楽や唱歌のたぐいばかり。正直、年頃の私たちには退屈で「糞面白くもない!!」のでした。

ところが、ある日、いつもとは明らかに異なる楽曲が流されたのです。初めて聴く曲、……いえ、正直、曲とは思えませんでした。単調ながら激しく体が揺さぶられるようなリズムの刻みが続き、メロディが流れたかと思いきや、やけに〝ハスっぱな〟口調の男声で【唄う】のではなく、【語り】だしたのです。

それまで邦楽、洋楽問わず、いわゆるロックというジャンルの楽曲を、少しも聴いたことがない私だからこそ、余計に「なんじゃこりゃ?」「新種のお経か?」と、冗談抜きに首を傾げてしまったわけです。

どちらにしても、中学校という【学び舎】の空間に、まったくそぐわないだろうことは、即座にわかりました。

♪~一寸前なら憶えちゃいるが
一年前だとチト判らねェなあ
髪の長い女だって ここにゃ沢山いるからねェ
ワルイなあ 他をあたってくれよ
アンタ あの娘の何なのさ!~♪

私が育った蒲田という、場末の歓楽街の土地柄では、中1といえども、すでに人生の裏街道をひたすら突き進むタイプ、「札付きのヤンキー生徒」の数も多く、そいつらは、スピーカーから流れてきた男声を聴いたとたん、「ヤッベぇ、ダウンタウンの新曲じゃん。宇崎、ちょーカッケェ!!」てなような……ことを口走りました。(「ヤッベぇ」も「カッケェ」も、まだ若者のスラング(流行り言葉)として定着していなかったはずですが(笑))

え、何? ダウン……タウン? ウザキ? 頭の中にいくつも???が浮かんだと思いきや、いきなりブチッと、実際スピーカーからブチッと不気味な音が聴こえ、男声が【消え】ました。生徒たちがざわつきだして数分後、何事もなかったかのごとく、いつも通りのつまらないクラシックの名曲が流されたのでした。

ブチッと【消え】た楽曲が、宇崎竜童率いるダウン・タウン・ブギウギ・バンドの4曲目のシングル、『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(昭和50年4月20日発売/作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)であることを知るのは、少し経った頃でしたね。

TVの歌謡番組に、リーダーの宇崎を含め、メンバー全員、上下が白のツナギ服&黒サングラス&リーゼントという、もろ蒲田のヤンキー同級生が憧れるだろう【不良の見本】みたいなスタイルで現れて、例の「一寸前なら憶えちゃいるが……」を【語り】だしたのを観て、「あー、これか!!」と納得した次第。

一方の、百恵チャンの大ヒット曲、『横須賀ストーリー』(昭和51年6月21日発売/作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)に関しては、さしたる関心もなかったですけれど、「昭和歌謡の会」を始めて以降に、月替りのテーマとして「作詞家・阿木燿子特集」を行った際、この楽曲の【凄さ】に改めて気付かされたものです。

まず冒頭の【これっきり】の連発ですよね。正しい日本語ならば【これきり】……。それが日常会話で「これっきり」となりますけれど、まさかその会話をそのまま歌謡曲の歌詞に、それも何度も何度も繰り返すという手法は、長い歌謡曲の歴史においても本邦初!! のはずです。おそらく作詞を書いた阿木先生は、はなから明らかに意図して「勝負を賭けた」のだと私は考えます。

百恵チャンみずから、おしどり夫婦のクリエーター阿木&宇崎のもとに出向き、「私がイメチェンできる曲を書いて下さい」と〝お願い〟した話は、業界では有名ですが、

百恵チャンが育った横須賀を舞台に、それも彼女の自叙伝によれば「私には父親はいません!!」と言い切る、実父とのトラウマが濃厚に残る横須賀を舞台に、だからこそ日常茶飯のごとく起こり得る、「身勝手で浮気な男」と「一途な女」の恋路の愚かさ、切なさを、「これっきり」という絶妙なキーワードを見事に活かして、描き切った……んじゃないでしょうかね。

♪~これっきり これっきり もう これっきりですか
これっきり これっきり もう これっきりですか
街の灯りが映し出す あなたの中の見知らぬ人
私は少し遅れながら
あなたの後(うしろ) 歩いていました
これっきり これっきり もう これっきりですか
これっきり これっきり もう これっきりですか
急な坂道 駆けのぼったら
今も海が見えるでしょう ここは横須賀

(中略)

一緒にいても心だけ ひとり勝手に旅立つ人
私はいつも置いてきぼり
あなたに今日は 聞きたいのです
これっきり これっきり もう これっきりですか
これっきり これっきり もう これっきりですか
そう言いながら 今日も私は
波のように抱かれるのでしょう ここは横須賀~♪ 

これっきりですか

さてさて、またしても【前説】が長くなってしまいましたが、ヰタ・セクスアリスの「後編」を披瀝する、前提といたしまして、大学4年当時の私の、横須賀のイメージは、以上〝こんなふう〟に、何1つ主観的なデータがないまま、勝手に決めつけてしまっていました。

つまり、私が生まれ育った蒲田の歓楽街より、さらにもっともっとディープで猥雑で危ない!! という感覚でしょうかね。

ところがF美が生まれ育った横須賀は、同じ市内にありながら、まるっきり【こう】ではないのです。いやぁ、大いにたまげました。【こう】どころか、その真逆、超高級住宅ばかりが建ち並ぶエリアの、ど真ん中に、F美ファミリーの住まう邸宅が実在しました。

京急線の横須賀中央駅の2つ先、堀之内駅から2股に分かれる……海側の路線の沿線は、観音崎という古くからの著名な観光地も含めて、横須賀は横須賀でも、〝別格〟な土地柄だったんですね。同じ大田区でも田園調布と蒲田との、あまりといえばあまりの、理不尽ともいうべき差異と、似てましょうか?

〝こんな〟ところに長く暮せば、F美のような、スレッカラシな気配の欠片もない、根っから穏やかで朗らかで、いささかオツムの緩さを感じさせないこともない、……要するにわが蒲田の同級生には、たったの1人もいない!! お嬢様キャラが構成されるのでしょうね。お嬢様ではあっても、「前編」でも触れましたが、少しも〝お高い〟素振りがないのです。

そんなF美と私、共に齢22になる、生粋の処女と童貞が、Xmasイブの夜に「結ばれる」ことになったか、……と言いますと、事実、そうはなりませんでした。

その夜、どこかのホテルにでも泊まれば良かったのです。何故そうしなかったのか? 記憶にありませんが、たぶんカネでしょうね。宿泊代をケチって、寝静まったわが家へ連れ込んだのでしょう。でもそのことで、事態は私の妄想していた方向とも、おそらく彼女が夢見ていた方向とも、まるで違う【道】へ進みだしてしまいました。

当時のわが家は、猛烈に古びた都営アパートでありまして、でも生意気に室内で上下の階に部屋が分かれる、メゾネットタイプだったんですね。2階にお袋と妹が寝ていまして……、私と彼女は1階のリビングで、まぁイチャイチャしておりました。

忘れもしません。座面がビニールクッションの椅子にF美を座らせ、2人はしばし濃厚なキスを交わしながら、私の指は、おもむろに彼女のスカートの中へ闖入し……。最初は遠慮がちにパンティの上から、でした。すでにかなり濡れていると知るや、布地の脇から直に、F美の花弁を弄(まさぐ)りました。さらに粘っこいとろみを湧出させている中心部の奥へずぶり、ずぶり、人差し指と中指の2本を、指の付け根まで押し入れたのち、クイッ、クイクイッ、クイッ、クイクイッ……、緩急のリズムを付けて指を【く】の字に折り曲げたのです。

すると面白いようにF美の表情は、とろ~んと、痴れて呆けた風に変わり、「はぁあ~ン」と、ひときわ獣じみた声を上げだしたので、私は慌ててポケットからハンカチを掴みだし、彼女の口の中に突っ込みました。

おのずとF美の腰は、前へ前へ迫り出して来ましてね。私は、彼女の両足を椅子に載せて、太股を思いっきり大きく【M】の字にひろげました。私にとって、生まれて初めて観る〝本物〟の女陰です。猛烈な興奮状態の中で、右手でクイッ、クイクイッ、左手で自分の勃起棒をシコシコとしごきつつ、

いざ──という段になり、はて、この先どういう風にF美の体を移動させれば、自分のイチモツと〝結合〟させられるか? 経験も知識もないので良くわからんのです。どうする? どうする? と焦る間にも、彼女の愉悦は絶頂に達しつつあり、急にけったいな震えが生じたと思いきや、「ふぅぅぅ~ン!!」……白目をむいて〝イッちゃった〟らしく、その刹那、ジョバババババーッ!! F美は大量のお漏らしをしてしまいました。

それが「潮噴き」という現象だと、童貞の分際で私は、なぜか「知っていた!!」……んですねぇ。ことエロに関する耳年増ぶりも、たいがいにせぇや、と、どなたかにお叱りを受けそうですが、事実です。

椅子の上はおろか、床に敷かれた絨毯まで濡れまくりました。こりゃ後始末が大変だぞ、と意識の隅で危険信号が点滅しましたが、そんなことより私の興味は、F美の「潮噴き」に強烈に傾いていました。はたして彼女が噴いた「潮」の匂いや味は、小便と違うのか? 似ているのか? 早速、椅子の上に溜まった液体を、指ですくって鼻に近づけたところ、まったく臭くないのです。味も、無味と言いましょうか、塩(しょ)っぱくも酸っぱくもありません。

私の58年の人生で、SEXの最中に「潮噴き」を体験したのは、F美ただ1人ですから、他人との比較が出来ないのが残念ですけれど、俗説としてよく語られる、「特異体質の女が時折、エクスタシーと同時に噴射する液体は、小便に間違いない」だけは、ハッキリと否定しておきます。だって、少しもアンモニア臭がしないんだもん。

こうして、念願のXmasイブに「童貞と訣別する!!」計画は頓挫し、年明けに持ち越しになりましたけれど、処女であるはずのF美が、こともあろうに私の〝見様見真似〟のフィンガーテクニックにより、初アクメ(昇天)とともに潮を噴きまくる!!という、ある意味、ごく普通のSEX初体験を叶えるよりも、よほど貴重なドキュメントであったと、……今では冗談抜きにそう考えます。

しかし当時、オハズカシながら「とにかく一発、女のマンコにぶち込みたい!!」欲望を滾(たぎ)らせておりました、22歳の私は、早くF美と【結合】したい想いで、自意識はとっくに飽和状態でした。

無事に卒論の草稿を書き上げ、清書はF美に手伝ってもらいながら、1月の半ば、成人式の前日あたりに完成したのですが、この作業を行うために、七草を過ぎたあたりから、連日、横須賀の彼女の自宅へ通いました。

昼前に着き、彼女の手料理のランチをご馳走になり、午後は夕方まで清書作業に没頭したかと言いますと、皆さんのご想像どおり、「そんなはずがない!!」わけでして、

初日は早めに作業を切り上げて、そのあと。翌日からは、部屋に招かれるとすぐ、とにかくF美を抱きました。出すモノを出さないと「気持ちが卒論に集中できない!!」と、彼女にわがままを言いましたが、出してしまったら、かえって疲れてしまい、清書がほんの数ページも進まない日もありました。

私は今、「出すモノを出さないと」と記しましたが、こう表現するからには、前年のXmasイブ以降、お預けを喰らったままのF美との【結合】が、ようやく叶ったのね、……と勘違いされましょうが、事実はまったく違います。

いえ毎日、素っ裸のF美を抱くことは抱くのです。彼女の部屋の、いかにもお嬢様が〝お休みになる〟にふさわしい、弾力性抜群なベッドに彼女を押し倒し、わが愚息を濡れアワビの裂け目にぶち込もうとする──までは、何ら支障もなく濡れ場は進むのです。ところが、あともう少しで【結合】というタイミングに、甘い吐息混じりにF美は、必ずこんな台詞を漏らすのです。

「あ~ン、結婚して~!! 結婚して~!!」

今も目を閉じると、その時の彼女の姿がリアルに思い起こされます。毎回ではありませんが、愉悦が臨界点を超えると、お嬢様と思えぬ牝獣の雄叫びを上げつつ、ふんだんに潮を噴き上げるF美なのに、淫唇へのインサートだけは、私が「結婚して~!!」の要求をクリアしなければ、絶対に許さない。

なんて身勝手な女だろう、と……、手前の身勝手さを棚に上げて、最初の数日は、大いに悩みました。F美を紹介してくれたFはもちろん、数人の男友達に相談すると、全員が全員、返ってきた答えは一緒。

「そんなの、口じゃあ『わかった、わかった』と適当なこと言っておいて、ヤッちまえばいいんだよ」

私には、それが出来ませんでした。おかしなところで真面目と言いましょうか、ほぼ100%「コイツと結婚する気はない!!」……それが明確に判っている自分が、嘘をついてまで彼女の処女膜をぶち破る気には、どうしてもなれなかったのです。

でも、射精の欲求はメチャメチャあるわけで。……どうしたら良いか? 必死に考えた結果、苦肉の策で捻り出した、私流の画期的なアイデアは、如何にも気違いじみています。

ベッドサイドにビニール袋を1枚、事前に用意しておき、私の愚息に我慢の限界が来れば、即座にビニールの中へ吐精する。そしてF美の頬をビニール袋でペタン、ペタンとひっぱたき、中に溜まった栗臭い白濁エキスの、その生温かな感触を、F美に味わわさせる……という。

どういう発想でそんなことを思いついたのか? いまだに判然としませんが、F美は次第にそのプレイにのめり込み、頬に押し当てたビニール袋を、愛しげに両手で包み、「わぁー、紳チャン、あったかい。紳チャン、あったかい」と、うわ言のごとく呟いたものでした。

結局、彼女とは、その年の5月過ぎまで付き合い、別れました。最後は私からではなく、彼女の方が身を引いた格好です。Fに急に電話をかけて来て、涙ながらに告げたそうです。

「彼のわがままさに、私はもう、疲れ果てました。これ以上は無理です」

まぁ、その通りでしょうね。「申し訳ない!!」としか、言いようがありません。F美はその後、1人の女性として、まともな生活を営んで行けたでしょうか? 皮肉でなく、私は長年、ずっとそれが気にかかっています。

処女なのに「潮噴き」を体験させられ、処女なのに、精液入りのビニール袋で頬をはたかれ……た彼女は、ひょっとして、私以外の誰かとのSEXの時も、【それ】を行わないと「少しも感じない!!」体質、トラウマの持ち主になっちゃったのではあるまいか? そのことで、まともな結婚生活が破綻しちゃいないか?

私の方も、それから現在まで、当メルマガの主宰者に比べれば、ほんの雀の涙程度の数の女と、まっとうな【結合】を体験してきましたけれど、淫陰へのインサートにさほど関心がなく、むしろ前戯のあれこれのプレイ……、

いや前戯すら要らない。女の汗や唾の粘ついた感触や匂いを堪能しつつ、みずから愚息をしごいて吐精する方が、よっぽど「エクスタシーを感じる!!」体質になってしまいました。

北原ミレイのデビュー曲、『ざんげの値打ちもない』(昭和45年10月5日発売/作詞:阿久悠/村井邦彦)の歌詞をもじって、私自身もイッチョマエに懺悔させていただくとすれば、

♪~そして こうして 令和2年
コロナコロナの 処暑の宵
ハゲた頭を 掻きむしり
思い出すのは 横須賀のこと
ざんげの値打ちも ないけれど
F美に詫びて みたかった~♪

以上、お粗末!!

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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