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中島みゆき 阿久悠

昭和歌謡_其の十九

昭和歌謡は総合アート

『悪女』

『二人でお酒を』

うた唄いの歌

いささか大きく出てしまいました。たかが流行(はや)り歌に過ぎぬ歌謡曲を、言うに事欠いて【アート】、それも【総合】までトッピングして。

呆れ顔の皆さん、お気持ちはわかりますけれど、たかが流行り歌、されど……。ま、アートの定義は何ぞや? という小難しいテーマは、またの機会にして。

昭和歌謡全盛期の、ごく一般的な作品創作のスタイルは、プロの作詞家が描いた歌詞と、プロの作曲家が紡いだメロディとを、プロの編曲家があらゆる音楽的な可能性を駆使して〝商品〟に仕立て上げ、それをプロのミュージシャンたちが演奏し、プロの歌い手が唄う……。

三位一体、いや四位、五位、六位一体、それぞれのポジションを担うプロの〝職人〟たちの、作品に賭けるエナジーの結集体が、1枚のシングルレコードに収まり、世の中に流通していくわけです。

時代の変遷にともない、プロのミュージシャンがスタジオで【生演奏】を披露しつつ、歌手がその音をじかに聴き、マイクの前で熱唱するという、本来のレコード制作の現場は、美空ひばりや石原裕次郎などの〝大御所〟を最後に、今やまず「あり得ない」光景になってしまいました。いや現在だって、出来ないことはないんですよ~、制作予算がふんだんに許されるならばね。

コンピュータの進化は、制作コストの削減という、きわめてミモフタモナイ現実を前に、プロのミュージシャンたちから、スタジオ録音の仕事を奪ってしまいました。

今では幼稚園児でさえ、自分の好きな楽器の音を、パソコンのキーボードを叩きさえすれば、いくらだって再現できます。しかもコンピュータが創り出す音のクオリティが、生音と比べて〝ほとんど〟遜色ない。(じつは、この〝ほとんど〟というのが問題なのですが、今回はそこはスルーします)

加えて、その手の専用ツールが、ひと昔前に比べれば、腰砕けになるほど廉価になっていますので、(こと歌謡曲のレコーディングに関して、ということになるでしょうが)プロのミュージシャンの生音に、あえてこだわる〝理屈〟を見つけられない……ということなのでしょうね。

とにかく、作曲家や編曲家が譜面に書いた音を、〝その通り〟に再現して見せるのは、生身の人間ではなくコンピュータであることが、当たり前の時代になりました。

この現実によって、〝○位〟の○の中の数字が、1つ減ったわけです。

さらに、いつの頃からか、「自分で唄う楽曲は、自分で作詞も作曲もする!!」という動きが、昭和歌謡の制作現場に生じます。いわゆるシンガーソングライターというやつですね。

もともとロックやフォークを唄っているバンドの面々は、しごく当たり前に自分たちで歌詞を書き、自分たちで曲をつけておりました。

それこそが、バンド結成の大きな原動力になっているはずですし、「俺たちを、〝商業主義〟の手先同然、軟弱な歌謡曲を唄う連中と、一緒にしないでくれ!!」というプライドこそが、亡き樹木希林の旦那である内田裕也の口癖「ロックンロール」の魂であり、『山野ブルース』(1968年9月5日発売)の岡林信康、『受験生ブルース』(1968年3月発売)の高石ともや、ほか、かつて一世を風靡したフォーク歌手たちの生き様だったのでしょう。

そのムーブメントの中心人物であったはずの吉田拓郎が、こともあろうに〝商業主義〟の音楽の象徴ともいうべき、演歌界のトップスター、森進一のために『襟裳岬』(1974年1月15日発売/作詞:岡本おさみ)を作曲した事実は、当時、大いに物議を醸しました。

じつは拓郎は、歌謡曲が大好きで、特に若い女性アイドル歌手に惹かれていた……という事実は、ほどなく本人が、当時の超売れっ子アイドルグループ「キャンディーズ」のために、次々と楽曲を提供したことで、みごとに露見するのですがね。

それはともかく、「自分たちが唄う楽曲は、自分たちの手で創る!!」という強いポリシーを胸に活動するミュージシャンと、作詞も作曲も編曲も他人に任せ、自分たちは「与えられた作品を唄うだけ」の歌謡曲歌手とは、同じ音楽業界に生きる〝うた唄い〟でありながら、まるっきり異なる人種だったわけです。

この流れが大きく変わりだすのは、あくまで勝手な分析ですが、女流フォーク歌手のトップスターだった中島みゆきが、初めて他人、それも演歌ではなく「ポップスが唄える」歌手の研ナオコに、楽曲を提供した……あたりではないか? と考えます。

『LA-LA-LA』(1976年6月25日発売)が最初で、『あばよ』(1976年9月25日発売)、『かもめはかもめ』(1978年3月25日発売)と続きますが、それらの楽曲が次々に大ヒットしたことで、中島みゆきの〝ビジネス〟も変わっていきます。

それまで確かに、フォークソングのファンたちには、熱狂的な支持を受けていましたけれど、研ナオコのブレイクとともに、中島自身も、「売れ筋のポップス=歌謡曲が書ける作詞&作曲家」――特にこの時代に生きる女性たちの本音を、さらりと流行歌にしたためて世に放つことが可能な、凄腕のクリエーターとして、音楽業界のプロたちはもちろんのこと、一般の歌謡曲ファンにも認知されたのです。

シンガーソングライター

興味深いことに、ちょうど同時期に、渡辺真知子がデビューします。

ご存じない方もいらっしゃるでしょうが、彼女は、れっきとしたシンガーソングライターなのです。本来なら、というより、一昔前ならということでしょうが、中島みゆきなどと同様、フォーク歌手としてデビューするのが順当です。

ところが渡辺は、あくまで歌謡曲を〝まっとうに〟唄う、ポップス系の「期待の新人」として、『迷い道』(1977年11月1日発売/作詞&作曲:渡辺真知子)を引っさげて音楽業界に殴り込みをかけてきたのです。

続く『かもめが翔んだ日』(1978年4月21日発売/作詞:伊藤アキラ/作曲:渡辺真知子)、さらに『ブルー』(1978年8月21日発売/作詞&作曲:渡辺真知子)と、新人ながら3曲続けて、それもみずから作詞や作曲を手がけた楽曲で、大ヒットを飛ばしまくりました。

結果、あろうことか、1978年暮れの「日本レコード大賞」では、他の新人歌手たちをひょいと飛び越え、最優秀新人賞に輝いてしまった!!

これは、ある意味、衝撃的な事件です。

なぜか? 同期のデビュー組の中には、大手芸能事務所に所属し、鳴り物入りでデビューした、とびっきりの〝大物〟アイドル・石野真子がいたからです。

下馬評では、ほぼ100%、「レコ大は、石野真子の最優秀新人賞で決まり」でした。芸能ビジネスの裏事情的にも、さまざまなしがらみがあるはずですから、石野には、どうしても受賞してもらわないと、あらゆる〝大人たち〟が困るわけでしょう。

でも事実は、石野真子は落選。シンガーソングライターの渡辺真知子に、軍配があがった……。

この瞬間、歌謡曲の制作、特にアイドルソングの制作において、しごく当たり前だった作詞、作曲、歌唱の〝分業〟スタイルは、大げさでなく音をたてて崩れてしまいました。

ニューミュージックという、音楽業界の新しいジャンルの誕生です。

中島みゆきも、このタイミングを逃さず、研ナオコに提供した楽曲をはじめ、さまざまな〝流行歌手〝たちに提供した作品だけ集めて、セルフカバー・アルバムを発売(1979年11月21日)しました。アルバムのタイトルは『おかえりなさい』。これがまた売れました。

女流フォーク歌手の1人だったはずの中島が、現在、ニューミュージック系の歌姫として扱われるのには、こういった背景があったわけです。

ニューミュージック系の歌手の活躍は、現在の平成ポップス全盛時代へとつながる、大きな大きな導火線だったことに間違いありません。

中島みゆきやユーミンこと松任谷(荒井)由実は別格としても、五輪真弓、竹内まりあ、山下久美子、松原みき、門あさ美ほか、1980年前後には、さまざまな女流シンガーソングライターが、その時代の流行歌手、特に売れっ子のアイドル歌手たちと肩を並べて活躍しまくりますが、

あくまで「歌謡曲=流行歌を唄う歌手」という目線で捉えた場合、昭和歌謡の唄い手として、私が自信を持って評価できるシンガーソングライターは、渡辺真知子ただ1人です。

1980年代の後半、さらに1990年代に入ってくると、オリコンのヒットチャートのベスト10を、女性も男性も、ニューミュージック系のミュージシャンばかりに占拠されるようになり、従来の歌謡曲の創り方も変革せざるを得なくなったのです。

プロのミュージシャンたちが奏でる生音がコンピュータの電子音に変わり、作詞と作曲と編曲の〝分業〟が当たり前だったものが、「唄い手1人ですべてこなす」感覚が、多くの歌手に拡がっていきます。

○位一体であったはずの、歌謡曲の制作……。いつの間にか、○に入る数字が減りまくり、もはや〝歌創り〝の現場は、それぞれプロフェッショナルな凄腕を、互いに「見せつけ合う」場所ではなくなりました。

そのこと自体に、良いも悪いもないのでしょう。でも、かつての昭和歌謡全盛期に流行った、膨大な数のヒット曲を愛する身といたしましては、ナンチャッテ付きで「総合アート」だったはずの、一大音楽ジャンルが、個々の才能あるミュージシャンたちの「1人芝居」のエナジーに気圧されて、世の中から淘汰されるのを、黙って傍観するしかないなんて哀しすぎます。

多くの大ヒット曲を持つ、由紀さおりが、かなり年下の後輩歌手、マルシア(※猪俣公章の弟子。『振り向けばヨコハマ』でデビュー。この楽曲が大ヒット)に、最近、うるさいほど忠告するそうです。

「あなた、歌謡曲を唄い続けなさい。素晴らしい歌謡曲の火を、あなたたちの世代で消しちゃ駄目よ!!」

繰り返し記しますが、歌謡曲の制作の基本は、作詞家、作曲家、編曲家、歌手、プラスαの○位一体です。まさしくプロの職人たちの腕の見せどころ。そのがっぷり四つの出来具合こそが、魅力です。

シンガーソングライターの楽曲を、否定するつもりは毛頭ありませんが、○位一体で創られた「これぞ歌謡曲!!」の魅力……、その火を、由紀さおりではありませんが、消したくありません。

猫も杓子も平成ポップス一色になってしまった現在、テンポとリズムばかりが際だち、きちんとしたメロディラインがないから、曲を覚えたくても覚えられない。歌詞がまた、テロップがなきゃ何を唄ってんンだか判然としないほど、ごちゃごちゃと理屈っぽい。だから老若男女みんな揃って、鼻歌交じりに唄える楽曲が、ほとんどない!!

そんな平成30年の音楽事情だからこそ、時代にふさわしい「これは!!」という歌謡曲が、求められてもいるはずです。

最後に、中島みゆきが作詞、作曲、歌唱して大ヒットを飛ばした、『悪女』の歌詞と、作詞も作曲も歌唱もすべて異なる、三位一体のお手本のような、昭和歌謡の大ヒット曲、梓みちよの『二人でお酒を』の歌詞を、並べて書き写しておきます。

読み比べてみて、皆さんは、何をお感じになられるでしょう?

『悪女』(1981年10月21日発売/作詞&作曲&歌唱:中島みゆき)

♪~マリコの部屋へ電話をかけて 男と遊んでる芝居 続けてきたけれど
あの子もわりと忙しいようで そうそう付き合わせてもいられない
土曜でなけりゃ映画も早い
ホテルのロビーも いつまで居られるわけもない
帰れるあての あなたの部屋も 受話器をはずしたままね 話し中

   悪女になるなら 月夜はおよしよ 素直になりすぎる
隠しておいた言葉がほろり こぼれてしまう「行かないで」
悪女になるなら 裸足で 夜明けの電車で泣いてから
涙ぽろぽろぽろぽろ 流れて涸れてから~♪

『二人でお酒を』(1974年3月25日発売/作詞:山上路夫/作曲:平尾昌晃/歌唱:梓みちよ)

 ♪~うらみっこなしで 別れましょうね
さらりと水に すべて流して
心配しないで 独(ひと)りっきりは
子供の頃から なれているのよ
それでもたまに 淋しくなったら
二人でお酒を 飲みましょうね
飲みましょうね~♪

 

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

 

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