沢田研二
昭和歌謡_其の二十
意地があるなら、痩せなさい‼︎
ジュリィ〜ィ〜
いきなり何の話かといえば、先日のジュリーこと沢田研二の、当日ドタキャン騒動に対して、かつての渡辺プロダクションの先輩、中尾ミエが放った、キツ~い〝お説教〟が、この台詞だったそうで……。
かつての〝全盛期〟同様、いまだにジュリーを熱愛し続ける、すでにマニアと化しているとおぼしきファンの数は、全国にどのくらいおられるのでしょう?
私も時たまカラオケで、彼の大ヒット曲の『勝手にしやがれ』(1977年5月21日発売/作詞:阿久悠 / 作曲:大野克夫 / 編曲:船山基紀)や、『時の過ぎゆくままに』(1975年8月21日発売/作詞:阿久悠/作曲&編曲:大野克夫)などを熱唱することはありますけれど、
「ジュリーが好きか?」と面と向かって訊かれれば、正直、昔から決して好きじゃあないですね。中身よりも〝スタイル〟を優先させるタイプの歌手に思えたもので。
ただ一点だけ、歌手ではなく映像俳優としてのジュリー、それも、今やレジェンド的映画と化している、長谷川和彦監督が撮った『太陽を盗んだ男』に主演した際の、彼の演技はじつに良かった!!
東海村原発から液化プルトニウムを強奪し、日本政府を恐喝する一匹狼のテロリストの役柄でしたが、その要求がなんともクレイジーな内容でして、「プロ野球のナイターの、最終回まで完全TV中継」と、「ローリング・ストーンズ日本公演の実現」の2つ。
周囲からみりゃ、明らかにキチガイ、狂気の沙汰としか思えないのだけれど、本人は真面目も真面目、オノレが信じた〝スタイル〟だけを追い求め、やがてみずから破滅していきます。
あくまでこじつけに過ぎませんが、今回、ジュリーが報道陣の前に、一世を風靡した「ザ・タイガース」の頃はもとより、大ヒット曲を連発していた頃の面影の欠片もない、醜くデブった介護老人のごとく肉体をさらしてまで訴えた、
「ファンに意地を通させてもらいました」
「僕は面倒臭い男なんです」
この発言をTVで見聞きして、私は反射的に、『太陽を盗んだ男』の主人公とダブらせました。
いくら周囲の関係者が翻意させようとも、当日、会場に駆けつけた多くの(足腰の衰えたご年配方を含む)ファンを失望させようとも、オノレの決めた〝スタイル〟を貫き通すのが信条のジュリーにしてみりゃ、屁でもないはずです。
『カサブランカ・ダンディ』
この騒動をTV各局のワイドショーが取り上げる際、判で押したように、BGMに使っていた楽曲が『カサブランカ・ダンディ』(作詞:阿久悠/作曲&編曲:大野克夫)だったのには、笑いました。
♪~ききわけのない女の頬を ひとつふたつ張り倒して
背中を向けてタバコを吸えば それで何もいうことはない
ボギー ボギー あんたの時代は良かった
男のやせ我慢 粋に見えたよ
ボギー ボギー あんたの時代は良かった
男の痩せ我慢 粋に見えたよ~♪
映画『カサブランカ』に主演した男優、ハンフリー・ボガートの演技=生き方を、ダンディズムの極みと捉える殿方の皆さんは、私よりも上の世代に、かなりの数いらっしゃいますよね。
作詞を担当した阿久悠は、ジュリーを、そのハンフリー・ボガード、通称〝ボギー〟に見立てて、自分だけが愛する美学、流儀を貫く男の姿を描いたわけでしょうが、
現在の〝あの〟でぶでぶ&たっぷんたっぷん、老醜としか言いようのない肉体と化したジュリーが、何の冗談か、いまだにボギーのダンディズムを踏襲し、
ウン十年も追っかけをしているような熱狂的ファンの頬を、当日ドタキャンという仕打ちで「ひとつふたつ張り倒して」やって、およそ数千万円という莫大な違約金などが発生するのを、百も承知で、グッと「男のやせ我慢」を貫いて見せた……
と、各マスメディアは意地悪く皮肉ったつもりなのでしょう。
しかし、それにしても、この歌詞の字面、あらためて眺めてみて、いやぁ~トンデモナイ!! と思われませんか?
今時もし、たとえば超売れっ子の秋元康が 某歌手の新曲用として【コレ】を書いて手渡したならば、現場は大変なことになるはずです。女性蔑視、セクハラ、DV、懐古趣味による現実逃避、加えて、神経過敏気味の嫌煙主義者どもも、一斉にネット上で騒ぎだすのではないですかね。
この楽曲が発売されたのは、1979年2月1日です。もちろん大ヒットして、当時、人気のTV音楽番組『ザ・ベストテン』はもちろんのこと、ラジオや有線放送ほか、連日のようにジュリーの唄声を、聴き飽きるほど聴かされました。
つい昨日の出来事のように感じていましたが、あれからおよそ40年……。平成を生きる若者にとっては、ジュリーの存在自体、はるか昔も昔、すでに〝現代〟ではなく〝近代〟の歴史に登場する人物に他ならないわけです。
40年も月日が流れりゃあ、ジュリーでなくても、肉体も精神も衰えて当然でありまして、むしろ寄る年波に合わせて、自分の生き方の〝スタイル〟に変化をつけるのは、私も含めて、多くの人間にとって、ごく当たり前のことだと思われますが、
大スターの道を歩いてきたジュリーは違うのでしょう。
ハンフリー・ボガードがボギーであるように、沢田研二は、昔も今もジュリー以外の何者でもないのです。
いや、なにより沢田研二自身が、一番そのことを意識し、常に〝ジュリーである自分〟を演じ続けているんだな、と、私は、当日ドタキャン騒動に接して、あらためてそのことを悟らされました。
ジュリーを演じ続けるために、彼は「意地を通させてもらった」わけでしょう。
だったら、中尾ミエではありませんが、シノゴノほざく前に、
「その醜い肉体をなんとかしなさい!!」
「1日も早く痩せなさい!!」
少なくとも今の沢田研二の〝見かけ〟で、ジュリーを名乗る資格など、1ミリたりともありゃしない。……と、私は考えます。
勝沼紳一 Shinichi Katsunuma
古典落語と昭和歌謡を愛し、月イチで『昭和歌謡を愛する会』を主催する文筆家。官能作家【花園乱】として著書多数。現在、某学習塾で文章指導の講師。