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朱里エイコ

昭和歌謡_其の六十三

【ダイナマイト級】ボイスの歌姫たち(後編)

『北国行きで』朱里エイコ

最上級のダイナマイト・ボイス

これまでご紹介してきた【ダイナマイト・ボイス】の歌姫……ミーコこと弘田三枝子、ミッチーこと青山ミチ、と来れば、もう1人、決して忘れてはならないのが、朱里エイコでしょうかね。
ミーコもミッチーも、どう頑張ったって、所詮「和製ポップス」の世界での【ダイナマイト・ボイス】でしたが、エイコだけは〝格〟が違います。
戦後の日本の音楽史において、初めて、ショービジネスの本場、アメリカの地で、現地のプロ中のプロの歌手やミュージシャンに認められ、ステージ上で一緒に唄った!! 世界でも十分に通じる【ダイナマイト・ボイス】の持ち主──、それが朱里エイコの〝正体〟なのです。

しかも、当時、エイコはまだ16歳。中学を卒業したばかりです。昭和39年11月、日本人に海外渡航の自由が与えられた、その【元年】に「アメリカで成功する!!」との誓いを胸に、単身、渡米を決意します。
観光気分でないことを自分に言い聞かせるため、また、おそらくは現地のアメリカ人たちに納得させる意味も強かったでしょう。まるで勝手のわからぬラスベガスの地に、部屋を借りて定住した……というのですから、脱帽したくなるほどの度胸と覚悟です。
彼女が【こう】決意する、きっかけは、当時のハリウッドで有名だった(らしい)プロデューサーの、トーマス・ポールが来日した際に、新人オーディションのようなものが行われ、エイコが選ばれた、……んですね。ラスベガスの外れにあったホテルのショールームで、初舞台を踏みます。

これが、周囲の予想を上回る人気だったようで……。まぁ、現地人からすりゃあ、見世物気分だったのでしょうね。敗戦国の日本から、年端も行かぬネンネの少女がやって来て、元気一杯、若さあふれるショーマンシップ精神を武器に、流暢な英語でアメリカン・ポップスや有名なジャズのナンバーを【見事な声量】で唄いまくるのですから。

たちまち本物の音楽に目も耳も肥えている【大人】たちに認められ、可愛がられ、アメリカの地でプロ歌手としてデビュー!!2年契約を結び、ラスベガスを中心に、リノ、レイク・タホ、ハワイ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなどの一流ホテルやナイトクラブなどのステージで、活躍しまくりました。
日本人離れした【ダイナマイト・ボイス】のエイコでしたが、当然ながら、ショービジネスの本場のアメリカには、どの地においても、彼女クラスの実力の持ち主は、すでに大勢いて、どこのステージに立ってもエイコだけが無名でした。
──つまり自分の持ち歌、オリジナルの楽曲が1つもない!! わけですから、ステージで要求される楽曲は、リアルタイムにアメリカで流行っているヒットソング【ベスト40曲】だったそうで、「それを毎日毎日、寝るヒマも惜しんで覚えるのが、一番大変だったわ」と、のちに彼女は語っています。

ラスベガスの著名ホテルのディナーショーでは、サラ・ヴォーンとデュエットする!! という奇跡的な体験も味わいます。当時のエイコの奮闘は、ニューヨーク・タイムズやロサンゼルス・タイムズといった、アメリカの著名新聞の芸能欄に、でかでかと載ったぐらいの快挙でした。
未成年ながら、アメリカの音楽業界において【これだけ】の実績を積んだ日本人歌手は、おそらく令和2年の現在でも、皆無……じゃないですかね。そのくらい、同じ〝流行歌〟を唄う歌手でも、アチラとコチラでも【環境】が圧倒的に違います。
今だって【そう】なのですから、およそ60年前、昭和40年前後の日本の音楽業界の実情たるや、エイコの感覚からすれば幼稚も幼稚、とても「プロフェッショナルな歌手が活動する現場じゃない!!」と映ったはずです。
朱里エイコの不幸は、すべて【そこ】に集約されます。

現在のような、世界各国どこであってもインターネットで【つながる】時代じゃありません。昭和41年、アメリカでの実績を手土産に意気揚々と帰国。本人の意識とすりゃあ、まさに凱旋帰国を果たしたつもりだったでしょうが、朱里エイコの芸名をもらい、4月10日、『恋の落とし物』(作詞:福地美穂子/作曲:すぎやまこういち)というオリジナルの楽曲で、改めて日本で歌手デビューしたものの、さっぱり売れません。

本人の意識からしても、あてがわれた楽曲は、歌詞も曲も「ちっとも唄いたくない!!」レベルの代物だったのでしょう。そんな調子ですから、9月に日生劇場で開いた、日本では初めての単独リサイタルも、客の評価は惨憺たるものだったようです。
欧米の本格的な音楽に、まだ馴染んでいない日本の観客にとって、エイコの唄う楽曲は、あまりに日本人離れしすぎていて、容易に親しめないんでしょうね。「歌は確かに上手いけど、なんか、つまんない」……てな感じでしょうか。
以降、シングルを何枚も発売しますが、結果は同じ。エイコは計り知れぬほどの絶望感を味わわされます。「なんで?」「どうして、みんな、わかってくれないの?」……。彼女は心底、日本の芸能ビジネスの感覚の古さ、劣悪さを罵り、本場アメリカのレベルとの、理不尽なまでの格差に呆れ果て、結局、彼女はアメリカへ【帰って】しまいます。

しばらくアメリがで活躍すると、故郷の日本が恋しくなるようで、頻繁に帰国しては、また絶望してアメリカへ【帰る】生活を、何年も続けます。

日本で成功しない理由の1つに、エイコ自身の強烈な自己認識=アーチストとしてのプライドの高さがありました。「自分は流行歌手じゃない!!」──でも日本では、クラシック系のオペラ歌手でもなければ、アーチスト扱いされません。
どれほどキャリアを積んだ歌手でも【売れてナンボ】、実力よりも売れるか否か? 【そこ】しか評価のモノサシがない!! それは、当時も今も、日本の音楽ビジネスの、宿痾ともいうべき致命的なアキレス腱でしょうけれど。
【古巣】のラスベガスでショーを行えば大盛況。〝その気〟になって日本に戻ってくれば、状況は変わらない。何度も日米の行ったり来たりを繰り返し、……でも、〝判って〟いても、やっぱり「日本で成功したい!!」
エイコがもし、「くっだらねぇ!!」日本の芸能界なんて、とっとと捨てちゃって、【等身大】で実力を評価してくれる、アメリカでの芸能活動オンリーに切り替えれば、彼女の晩年も、現実とは違うものになったのでしょうに。
でも、やっぱりエイコは日本人。自分の生まれ育った日本の地で、全国のお茶の間の歌謡ファンに、持ち前の【ダイナマイト・ボイス】を正統に評価されたかったのでしょうし、割れんばかりの歓声と拍手の嵐を浴びたかったのでしょう。

『北国行きで』とウーマンリブ

その絶好のチャンスが、エイコにもたらされたのは、昭和47年1月25日でした。この日、カラオケファンなら誰しもご存知の、あの昭和歌謡の名曲『北国行きで』(作詞:山上路夫/作曲:鈴木邦彦)のシングルが発売されたのです。
単身、16歳でアメリカに旅立ち、ラスベガスをはじめ各地のステージで唄いまくり、賛美されまくってから、……はや7年の月日が流れ、
狭っ苦しい島国ニッポンの、幼稚で古臭い体質な芸能界で歌手デビューし、シングルを出し続けて10枚目!! エイコは23歳になっていました。

♪~つぎの北国行きが 来たら 乗るの
スーツケースをひとつ 下げて 乗るの
ア~ 何もあなたは知らないの この町と別れるの
明日あなたにお別れの 手紙が届くわ きっと
いつも別れましょう と言ったけれど
そうよ 今度だけは 本当(ほんと)のことなの~♪

昭和47年という時代の空気は、女性が【日増しに】強くなって来た……ような印象を、当時10歳だった私も、結構リアルに感じておりました。

派手なピンク色のヘルメットをかぶって、女房に隠れて愛人と密会しまくる亭主を、集団で吊るし上げる!! などなど、過激な活動で日夜、世間を騒がせまくった、榎美沙子率いる「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」……まるで早口言葉のごとく女性団体、略して中ピ連。ふうむ、懐かしいですねぇ。ウーマンリブ(女性解放)の過激派を気取っていた風でしたがね。
本来のフェミニズムという思想は、もっと奥深いものだと、理屈では判りつつ、子供の頃の、榎美沙子および中ピ連の悪しきトラウマが、齢58になる現在もなお、私の自意識の奥に濃厚にこびりついていましてね。「男女差別がどう……」「女性蔑視がどう……」やたら口うるさくほざく輩に、時代錯誤なまでの嫌悪を覚える自分を、どう非難されようと変える気になれません。

そんな私でも、超売れっ子作詞家、山上路夫先生が書いた『北国行きで』の歌詞内容には、強く惹かれるものがあります。

それまでの流行歌に描かれる、男女の別れは、決まって、女は「行かないで!!」と未練がましく泣きじゃっては、去って行こうとする男を引き止める。あるいは、すでに【逃げた】男を追いかける……。
ところが、この楽曲の主人公の女は違います。過去に、何かのことで揉めるたび、「私たち、もう別れましょう」と何度もそう告げまくり、でも……理由はどうあれ、実際に別れる踏ん切りは、なかなかつけることが出来なかった。

でも……、
♪~そうよ 今度だけは 本当(ほんと)のことなの~♪

この決意は重たいですね。いったん本気で決意した女は、覚悟を決めた女は、私の知る限り、「絶対に、もう後戻りはしません!!」「過去を振り返ることも、ありません!!」
『北国行きで』の大ヒットの最大の援護射撃が、中ピ連の活動だとは考えにくいですが、それでもウーマンリブ旋風も追い風となり、この楽曲のシングルは爆発的に売れました。朱里エイコの名前も、ようやく日本全国のお茶の間に知れ渡ったのです。

エイコ旋風は吹きまくり、『心の傷み』(昭和47年7月10日発売/作詞:山上路夫/作曲:鈴木邦彦)、『恋の衝撃』(昭和47年9月25日発売/作詞:山上路夫/いずみたく)、『ジェット最終便』(昭和48年7月10日発売/作詞:橋本淳/作曲:川口真)、『白い小鳩』(昭和49年7月25日発売/作詞:山上路夫/作曲:都倉俊一)……現在でも、カラオケファンに愛される楽曲を、吹き込みまくります。

「本場のポップスのような歌謡曲が唄いたい!!」という望みは、前々回に紹介した弘田三枝子も、前回紹介した青山ミチも、相当強かったはずで、……でも、ミーコのオリジナル楽曲でのヒット『人形の家』も、ミッチーのヒット『叱らないで』も、日本の流行歌として【良く出来て】いるものの、2人が期待していた「本場のポップスのような歌謡曲」からは、程遠いものだったはずです。

ところがエイコにあてがわれたオリジナル楽曲は、『北国行きで』はもちろん、上記の4楽曲も含め、どれもこれも、当時の日本の歌謡曲業界の未成熟さを考慮すれば、前奏のメロディラインからして、【本場のポップス】に匹敵するだけのクオリティを具現化できた!! のではないか? と、あくまで私論ですが、そう考えます。

エイコ自身も【そう】感じたようで、『北国行きで』の主人公同様、
♪~そうよ 今度だけは 本当(ほんと)のことなの~♪

本気で【今度こそは】日本の地で、日本の芸能界で、歌手活動をフル回転させる決意を固めました。そして、アメリカで「最後のショー」を開催し、現地の住居を引き払って、故郷ニッポンへ戻ってきたのですが……ね。
この年(昭和47年)の大晦日、念願だったNHK「紅白白歌合戦」に初出場し、生放送の舞台で『北国行きで』を熱唱します。

転落

順風満帆だったはずのエイコは、──しかし翌年2月14日に開かれた『朱里エイコリサイタル』の出演中、途中で歌詞を間違えたことのショックから、ショーの後半、まったく声が出なくなってしまい、リサイタルは急きょ中止。本人はそのまま楽屋から疾走する!! という、当時とすると、最大級な芸能スキャンダル事件を起こしてしまいました。

理由は何だったのか? 週刊誌のスクープ報道によれば、『北国行きで』が発売して間もない3月と、さらに5月、2度にわたって交通事故に遭い、重度のむち打ち症に悩まされ、情緒不安定なノイローゼ状態が続いていたのだそうです。
せっかく掴んだ日本の芸能界での【大成功】でしたが、エイコを眺める世間の目はガラリと変わり、「失踪歌手!!」「スキャンダル歌手!!」のレッテルが、常について回ります。
ノイローゼ状態に鬱病も加わりつつも、以降、数年間、心の乱れを、だましだまし、全国各地のステージに出演していましたが、……いやはや、ここで書くのもはばかられるほど、幾度もステージの失踪を繰り返し、

1984年3月、東京は赤坂にあったレストラン・シアター・コルドンブルーで1ヶ月間、開催予定だった「朱里エイコ・ワンマンショー」……。チケットは事前に完売だったにもかかわらず、公演1週間目、エイコは会場に姿を見せず!! 焦ったスタッフが自宅を訪ねると、睡眠薬と栄養ドリンクの飲み合わせが悪く、口から泡を吹き、半死半生の状態で倒れているのが発見されたのです。

この事件により、エイコが日本の芸能界で【生き残る】道は、完全に途絶えました。ほどなく彼女は、マスコミの襲撃から逃れる目的と、心身を癒す目的を兼ねて、もう二度と「戻ってこない!!」つもりでいた、アメリカはラスベガスに旅立って……。

以降、重度の肝臓病のため、長期入院するなど、常に「生きるか死ぬか」というレベルの病気を抱えながら、アメリカと日本を行ったり来たり……する生活を続けたようで、平成16年7月31日、虚血性心不全のため、自宅で倒れたまま、亡くなりました。享年56。
エイコの遺体が発見されるまで、数日も放置されたというニュースを、ネットだか雑誌だかの記事で知り、私は大いにショックを受けました。相当に苦しかったのか、「カーテンにしがみつき、重さでカーテンレールごと外れて落ち……」というような記述でした。
弘田三枝子は、度重なる美容整形によって【ダイナマイト・ボイス】を失い、青山ミチは、【ダイナマイト・ボイス】は健全なれど、覚醒剤や窃盗ほか、度重なる犯罪によって、芸能人である自分を失い、朱里エイコは、交通事故の後遺症とはいえ、度重なる失踪癖により、日本の芸能界を追われてしまった……わけですね。
ミーコとミッチーはともかく、朱里エイコに限って言えば、何故に、それほどまでに、日本の芸能界で「認められる!!」ことを望んだのでしょう? ショービジネスの本場アメリカで、本場のステージで脚光を浴びたのなら、プロ歌手として本望!! ……ではなかったのですかね。

彼女の追悼がわりに、私はこの原稿を書きながら、YouTubeで朱里エイコの楽曲を聴きまくっていますが、椎名林檎もカバーしている『白い小鳩』の歌詞が、私の胸に突き刺さります。コラムの末尾に、その歌詞の一部を載せておきましょう。

♪~この町で生まれたのよ 悲しみだけ うずまく町
どこか遠く 逃げたいわ! 私は白い小鳩
いつかはきっと みじめな私も
この羽ひろげて 遠く遠く旅立つわ
泣きながら生きて来たわ 想い出せば いつも私
ここの町は 泥沼よ! 私はもがく小鳩~♪

……合掌

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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