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夢魔の棲まう街 その壱

フィレンツェ国際空港 Aeroporto di Firenze

それはまだ、イタリアの通貨がユーロではなくリラであった頃のことである。

その夜、パリ経由でフィレンツェのアメリゴ・ベスプッチ空港に降りた私は、バールに駆け込んだ。

お定まりの機体整備で、シャルル・ド・ゴール空港を30分遅れで出発したエア・フランスのフィレンツェ到着は、空港のバール閉店ギリギリの時間であった。

案の定、店仕舞いを始めようとしていたバーテンダーは小さく悪態をついたが、私は構わず注文をして、その細やかな抵抗を葬った。

世界の空港には、みなそれぞれ独特の匂いがあると聞いたことがある。

確かに、度々訪れるバンコクのスワンナプーム空港では、蘭の花と香辛料の混じり合った甘い香りがし、ハワイやグアム、サイパンといった空港では、それぞれ微妙に異なるココナッツの匂いがする。

また、私はそれを感じたことがないが、海外の人間に云わせると成田では味噌汁の匂いがするという。

この、旅情を軀に浸み込ませる空港特有の匂いというものは、異邦人に与えられた特権かもしれない。

イタリアの空港の香りは何と云ってももエスプレッソである。

香りだけではなくイタリアに着いたら、まずエスプレッソを呑まなければどうにも落ち着かない。そこで空港に着くやバールに駆け込んで、まず一杯やることになる。

これでやっとイタリアに着いたのだと、頭でなく体が納得するのである。

ひと息れつきながら、改めて空港を眺めると、街全体が美術館である古都フィレンツェに魅了されて、世界中からやってくる観光客を迎え入れる空の玄関口としては、ここは少々寂しい。

空港に命名されている〝アメリゴ・ベスプッチ〟というのは、フィレンツェの貴族であり冒険家でもあった男の名前である。

アメリゴの功績は、コロンブスが新大陸を発見したのちに、この大陸が確かに新大陸であることを証明したことにある。そのため新大陸は彼の名をとって〈アメリカ大陸〉と呼ばれることになった。

今ひとつ世界に知られていないアメリゴの功績と、世界の美術館フィレンツェの割りには貧弱な空港のバランスの妙に、変に納得したのは私だけではあるまい。その後、あまりにアメリゴに失礼と思ったのか、空港の冠からアメリゴ・ヴェスプッチが外されたらしい。

バールに寄った分だけ、市内に向かうタクシー乗り場の列は長くなっていた。

その弍へ続く編緝子_秋山徹

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