夢魔の棲まう街 その参
ピッティ・ウオモ Pitti Immagine Uomo
車は二人を下ろし、本来の目的地、郊外のホテルへと走り出した。
運転手は、坊主頭に無精髭、片方の耳には銀のピアスを着けた若者で、最近この手の風貌をフィレンツェのタクシー運転手によく見るようになった。
失業率の高いイタリアで、不人気だったタクシー運転手を職業に選ぶ若者も増えて来たが、自分達のファッション・スタイルは変えないというポリシーは貫きたいのだろう。
強面な見かけによらず、彼らの物腰は案外丁寧で、礼儀正しいのがおかしかった。
イタリア慣れてしていない観光客だとわかると遠回りしたり料金をぼる、人を見て態度を変える行儀の悪い年季の入った運転手よりもよほどタチが良い。
女性二人が降りるとすぐに、ピッティ・ウオーモに来たのかと、話しかけてきた。
この世界有数のメンズファッションの展示会は、翌年の秋冬コレクションの一月と、春夏コレクションの六月の年二回、フィレンツェで開催される。
開催当初の会場が、ピッティ宮殿にあったためその名を残すが、現在は中央駅近くのバッソ要塞Fortezza da Bassoを会場として行われている。
バッソ要塞は、アントニオ・ディ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの設計により1953-55にかけて建設された。
外敵の侵略を防ぐために街の外壁から突き出すように作られた五角形の要塞で、現在は専ら展示会場として使用されている。
ピッティ・ウオーモには、イタリア国内のみならず全世界から、メンズファッションに携わる者たち、メーカーやバイヤー、私のようなジャーナリストなどが、毎回大挙して訪れ、展示会開催中その数は一万人に上る。
勢い、チェントロ(街中央)のホテルは部屋不足となり、郊外のホテルまで満室状態で、おまけに展示会の期間中は、宿泊料金が二倍三倍に跳ね上がる。
桜、祇園祭、紅葉の時期の京都の季節料金と同じといえば、理解し易いだろうか。
京都とフィレンツェがいくら姉妹都市でも、こんなところまで似ていなくとも良いと思うのだが。
そうだと答えてから、明日から四日間の会期中は忙しいんじゃないかと聞くと、運転手は、肩を竦(すく)めて見せた。
古都フィレンツェの街は狭い。
街中のホテルに泊まる者は、中央駅から7分ほどの場所にある展示会場までは歩いてくるし、郊外に泊まる人間は、自分の車かレンタカーでやってくるので、あまりタクシーには用がないらしい。
車は、サン・ジョバンニ聖堂の脇を抜けて、レプブリカ広場を左手にカリマラ通りを進み、ポンテ・ヴェッキオを渡って、ピッティ宮殿の前のロマーナ通りを行く。
ミケランジェロ、ダ・ヴィンチが、ボッティチェリ、ブルネレスキ、そしてダンテが、夜そぞろ歩きをしたであろう石畳を、初夏の風を浴びながら通り抜けるのは心地よい。
この街の良いところは、すぐそこの角を巨匠が曲がってくるのではないかという期待を抱かせるほどに、薄暗いことである。
やがてローマ門を潜り、郊外に出た。