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夢魔の棲まう街 その五

ホテルのレセプション Reception

運転手とタクシーは去り。

私は館の前に、ぽつねんと一人残された。

館の反対に目をやると、広い芝生の敷地の端が地平線のように突然途切れ、そこからフィレンツェの夜景が広がっている。

「ああ_絶景だな/Bello Sguardo」と自然に声が出た。

夜のフィレンツェに目を奪われ、しばし立ち尽くしていたが、旅行鞄を持ったままなのを思い出し、チェックインすべく入り口へと向かった。

頭上に聖母像を抱く館の入口には、高く分厚い観音開きの鉄扉が左右に開かれていて、鉄扉の他に外界と館を遮るものは見当たらなかった。

そして、この扉は1日中閉められることはないようだった。

ファサードの鉄扉の中央をそろりと進むと、巨大なホールの端に立つ自分がいた。

ホールは、奥行き15メートル幅30メートルほどの広さがあり、高さ15メートルはあろうかという天井と廻りの壁面には、旧約聖書を題材としたらしいフレスコ画が描かれている。

一瞬、教会にでも紛れ込んだかと錯覚するほどに、旧約聖書の逸話は私の頭上を取り囲んでいた。

ホールの大きさに比べ、電燈の数は少なく、全体が薄暗い。

四隅に潜む影は、人を異空間に誘うように口を開けていて、それがこのホールの本当の大きさを隠しているかのようだった。

この時、欧州独特の古い歴史を持つ美術館のようなホテル、ヴェネツィアのホテル・ダニエリhttp://www.danielihotelvenice.com/などに足を踏み入れた際に感じたのと同じような疎外感、拒絶感が私を襲った。

館は、これから素晴らしい場所に泊まれるのだという高揚感や喜びを私に与えることなく、極東からやってきた異邦人に対し、異文化の匂いを拒絶する気配を建物全体から放っている。

決して私自身の内面から湧いてくる感覚ではなく、明らかに外面から与えられた感情だった。

ホールに入ってすぐの壁際に、大きなアンティークの机が三つ、コの字型に置かれているのが見える。

机の上に受話器やパソコンなどホールに不釣り合いなものが並べられていることで、ここがレセプションだというのが知れた。

そして、このレセプションを構成している空間のみが、この館がホテルであることを証明していた。

机の後ろの壁には、中世からの薬局にあるような古い棚が置かれ、ルームキーが並んでいる。

棚の前に置かれた椅子に座っていた影が、こちらに近づいてきた。

影は若い男性となり、夜間のレセプションを担当しているジャンニだと名乗って、私の荷物を引き取った。

彼が私のパスポートとクレジットカードを確認している間にホールを見廻すと、壁際の棚の向こうに中地下と二階へつながる階段を見つけた。

中地下への階段は電燈が消えていたが、覗くとその先はバールのスペースとなっていて、大きなエスプレッソ・マシーンを備えたカウンターとその前に足の高いストールが三脚、カウンターの反対側の暖炉の前には、楕円形の低い猫足のテーブルとゆったりとした革張りのソファーが四台置かれていた。
バーは階段同様暗かった。

やはり空港でカフェを呑んできて正解だったなと思った。

振り返ると、レセプションの反対側の壁のフレスコ画に目が止まった。この絵だけは見上げる天井画ではなく。人の目線の高さに描かれている。

吸い寄せられるように近づいていくと、ボッテチェリのプリマベーラにも描かれている〈美〉と〈愛〉と〈貞節〉の象徴である三美神が手を取り合って、トスカーナの野原に遊んでいる絵だった。

中央の一人はこちらに背を向け、左右の二人がこちらを向いているという古典的な構図で描かれていて、美神たちの少し肥り肉で透明感のある乳白色の裸体が艶かしかった。

右の女神と目があった、妖しく私を誘う目だった。

三人のうち彼女だけは完全にこちらを向いて裸体をさらけ出している。
しばし見つめ合いながら、彼女は〈美〉〈愛〉どちらの象徴だろうか、まさか〈貞節〉ではあるまい、惜しげも無くこちらに裸体を晒しているということは、やはり〈愛〉か、などと想っているとジャンニが寄ってきた。部屋に案内するという。

ホールから階段に差し掛かった時、後ろから誰かに見られているような眼差しを感じたが、どうせ女神だろうと振り向かなかった。

中央に赤い絨毯が敷かれた灰色の石の階段を上っていくと、最上段に一匹の黒猫が座って私たちを見下ろしていた。

そばを通る時、そいつは金色の目で私を見上げ、歓迎なのか拒絶なのかわからぬ顔で小さく「ミャア」と鳴いた。

固く冷たい石の階段に黒猫の柔らかい毛先が触れている。それが一層階段全体を凍らせていた。

五階まで階段を上ると、それまで広かったフロアが急に狭くなりドアが一つしかない屋根裏のような場所に出た。

ジャンニは、ドアを開けながら今夜はこの部屋しか空いてないんだ明日は必ず部屋を替えるからと、しきりに謝りながら階下に降りていった。

その部屋は屋根裏部屋というよりも塔の真横にくっついているようだった。
壁に窓は無く、天井にガラス窓が嵌められており、星空が窺えた。

確かにメイド部屋のようなちんまりとした部屋だったが、長旅からようやくたどり着いたばかりの夜に、ただ寝るだけにはちょうど良いサイズだった。

明日の部屋の移動を考えて、洗面道具と明朝着るものだけを取り出し、荷解きはやらずに寝ることにした。

シャワーを浴びてから、グラスに冷蔵庫の赤ワインとガス(炭酸)入りの水を注いだのを一気に2杯呑んで、成田を発ってから20時間ぶりにベッドに潜り込んだ。

これで、朝まで泥のように眠れるはずだった。

編緝子_秋山徹

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