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親爺の基準

波平さんに罪はない

波平さんに罪はない

波平さんより
歳喰ってしまった
貴方に

磯野波平とは、云わずと知れた「サザエさん」のお父さんである。
「サザエさん」の物語中の設定で波平の年齢は54歳となっている。
とうに還暦を超えた編輯子なぞは波平より9歳も年長ということになり、この事実に唖然とする。

確かに、毎朝出勤している波平の様子は、嘱託でもなさそうなので定年を迎えていないとすれば還暦前という推測はできるのだが、彼の容貌はどう見ても我々親爺のひと世代上のように見える。

「サザエさん」が福岡の地方新聞『夕刊フクニチ』に連載され始めた70年前の昭和21年(1946)当時の54歳の男子の風貌としてなんの違和感もなかったと云うことである。

確かに、昔の日本人の肖像写真などを見ると、今の同世代に比べて老成しているように見える。

明治生まれの職業軍人であった祖父が、先の大戦で予備役から再招集された46歳の時の写真がある。

これを見るにつけ、当時の祖父が私よりも15歳以上も若いとは到底思えない。
日本人男性の容貌の老若という点では、この百年余りの間に10歳ほどの差があるのではなかろうか。

今節流行りの〝アンチエイジング〟志向では良いとされるのだろうが、「それではイケナイ」ような気がするのは編緝子だけであろうか。

一人前の大人と
認められるには

乱暴であるかもしれないが、年齢相応の精神構造が相貌に出ないというのは〝未熟〟の現れではないのか。

そしてこれには「基準」というものが関わるのではないかと想う。
基準/Standardとは「美意識」または、大げさにいってしまえば、「アイデンティティー」である。
世の中には、この基準が脆弱である方も多く、年齢に関係なく、この基準が甘ければ、一人前の大人とは認めがたい。

当然、ひとりひとりの基準は異なる。生まれ育った環境。それが国の場合もあり、地域、年代、宗教の違いという事もある。
本来、人との交わりは、この違いを楽しむ事にあるはずである。しかし、人は誤解し拒絶して争う事を止めない。

とまれ、自分自身「基準」ができると〝ブレ〟ることが少なくなる、無意識のうちの行為にも〝ブレ〟がなくなってくる。

昔の日本人には、確固たる「基準」があったのだろう。
故に、私たちには彼らが老成して見える。

波平しかりである「波平さんに罪はない」