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石原裕次郎

昭和歌謡_其の四十二

『風速四十米』が風速57.5メートルに!?

『風速四十米』

今年の秋のニッポンは、まさに台風のオンパレード状態!!毎週毎週、次から次へと太平洋の彼方から、気色の悪いとぐろを巻いた〝天空爆弾〟が、「これでも喰らえ~!!」の勢いで襲撃してきて、「俺たち(自然)をナメるんじゃねぇぞ!!」と啖呵を切りながら、南から順に各地を壊滅的に痛めつけ、図々しいばかりの態度で北の彼方へ姿をくらまします。

その繰り返し、繰り返し……。デジャブーにも似た〝現実〟が、何度も何度も、このちっぽけな島国を苦しめ続けています。

この原稿を書いている今日(10月7日)もまた、「超大型で、猛烈な威力の」台風19号が、「3連休初日の、12日土曜日の夕方から日曜日の未明にかけて、関東地方を直撃しそうだ」という気象予報が、TV画面に映し出されました。

時代はまだ1970年代に入ったばかり、私が小学校の低学年だった頃の記憶ですが、理科だか社会だかの授業で、南半球の太平洋に浮かぶ、パプアニューギニアなどの島国の、住民の苦労話を、担任教師がし始めました。

「あそこら辺は、年中、台風の被害を受けます。殺人的な暴風雨によって、家を吹き飛ばされ、学校も病院も商店も、島じゅうの大事なモノは、みんな吹き飛ばされてしまいます。でも住民は、昔からそういう自然環境に慣れていて、みんなで建て直し、生活をやり直すけれど、しばらくすると、また台風がやって来て、すべてまた、吹き飛ばされます。住民は慣れていますから、島のみんなで建て直し、生活がようやく元通りになると、また台風が……。熱帯地方の国々は、全世界、どこも同じような苦労を強いられるわけですが、相手が自然現象なので、人間の力では、台風の被害を喰い止めることは不可能です」

すると、クラスメートの1人が、こう質問したのです。

「でも先生、来る日も来る日も、台風の被害と、それを直してばかりいたら、他に何も出来ないじゃないですか? 南太平洋の島国の人たちって、可哀想だなぁ」

教師の答えは、

「だから熱帯地方では経済が発展しないのです。1年中、何かしらの自然災害、いくつもの台風や津波の被害に遭うので、その対応に時間も費用もかかり、他のことを考える余裕がない。可哀相だけれど、それが現実なんだよね。その点、日本は1年じゅう、穏やかな温帯気候に属しているので、経済の発展が自然災害に邪魔されることは、まずありません。みんな、日本に生まれて良かったね」

スミマセン、細かいところは正直、うろ覚えですが、最後の「日本に生まれて良かったね」の台詞だけは、今でも鮮明に脳味噌に刻まれています。同時に、パプアニューギニアを襲う台風の映像を、私は勝手に、かなりデフォルメして妄想し、1人で恐怖に震えたものでした。

当時のわが国は、戦後の高度経済成長の真っ只中、なおかつ私の育った大田区の蒲田近辺は、京浜工業地帯に属しており、まさに「行け行けドンドン!!」、右肩上がりの〝空気〟にどっぷり浸っていましたからね。それに引き換え、南太平洋の島国の住人たちの悲惨さが、よけいに、幼い私の自意識に迫って来たのでしょう。

〝あの〟授業から、半世紀近くが過ぎ去りました。

年号も昭和から平成、そして令和と移り変わった現在のニッポンには、北海道から沖縄まで、もはや「穏やかな温帯気候」の地域など、一部を除き、どこにも存在しません。夏は気温40度に迫る猛暑、なのに深夜および明け方は、一気にグ~ンと20度近く気温が下がり、いったん雨が降り出しゃあ、かならず「史上初の」超ゲリラ的な集中豪雨に至ります。

9月に入った途端、やたらと台風が連発され、直撃エリアに住まう皆さんは、この電脳オンライン全盛の世の中で、あろうことか2週間もの間、電気が切れっぱなし!! 携帯電話も通じない!! という、大げさじゃなく「こりゃもう、生き地獄だよ、まったく」という、地元の親父さんの嘆き節がリアルに感じられる、……そんな国へと、ニッポンは変貌してしまいました。

現在、経済の先進国家と呼ばれる国々の中に、日本のごとく自然災害のダメージを受ける国が、他にありましょうか? 地震、雷、火事、親父、もとい、地震、台風、津波、洪水、大雪、ゲリラ豪雨などの被害が、1年365日、全国のいずれかのエリアにおいて、日常茶飯的にもたらされる、こんな自然災害国家が、経済的に世界のトップに躍り出るなんて、私の脆弱なイマジネーションでは、どう妄想しても、あり得ない話です。

「2週間も電気が切れっぱなし!!」なんですよ~。家屋の屋根を直してもらいたくても、「1年先まで待ってくれ」なんて、にべもなく言われてしまうのが、現実なんですよ~。それでも〝おめでたく〟安倍総理は、政府の閣僚どもは、本気で来年、東京での2回めのオリンピック&パラリンピック開催を、強行するつもりなんですかねぇ?

いっそ私は、何ひとつ〝本当のところ〟を知らぬ諸外国の観光客たちに、311以降の、まだまだ中途半端な復興の現況、熊本地震ほか大地震以降の現況、さまざまな台風や洪水、ゲリラ豪雨の惨状を、「ありのままに観てもらい、ありのままに感じてもらえばイイんじゃねぇの?」……皮肉抜きに、そう考えます。そうであるならば、脳天気なオリンピック&パラリンピック開催も、少しは意味のある〝国家行事〟になりましょう。

風速四十米

1回めの東京オリンピックの開催は、1964年でしたが、その6年前に、日活で制作された、石原裕次郎主演の映画のタイトルが『風速四十米』でした。

映画全盛期の日活で、アクション映画を撮りまくってきた、蔵原惟繕監督の作品で、プロデューサーは水の江瀧子、原作&脚本は松浦健郎、共演は北原三枝、宇野重吉、山岡久乃、渡辺美佐子、川地民夫ほか。

新ビル建築にからむ、土建業界ではありがちな悪質きわまりない不正、汚職、はたまた会社の乗っ取り、殺人事件……を描いた、当時の日活が「お家芸」にしていたサスペンス・アクション作品なのですが、

ストーリーの後半、男1匹・裕チャンが、「風速40メートル」の暴風雨など、もろともせず、迫り来る大型台風と真っ向勝負しながら、昼夜を通して、まさに突貫工事でビルを完成させる──というのが、見どころです。

大学時代でしたか、日活アクションの名作として、某教授のゼミにて、名シーンを数カ所、観せられました。この映画の主題歌も大ヒットし、いや、話が逆ですね。『風速四十米』(作詞:友重澄之介/作曲:上原賢六)という歌謡曲が大ヒットしたために、映画【も】創られたわけです。

♪~風が吹く 吹く やけに吹きゃァがると
  風に向かって 進みたくなるのサ
  俺は行くゼ 胸が鳴ってる
  みんな飛んじゃエ 飛んじゃエ
  俺は負けないぜ……~♪

歌詞の途中で、裕チャンが景気の良い、啖呵さながらの台詞を吐きます。

「なんだい、ありゃ? ナニ? 風速40メートル? あははは……」
「おい、風速40メートルが何だってンだい。え? ふざけるんじゃねぇよ」
「馬鹿野郎ッ、風速40メートルが何だい? あははは……

音楽業界の専門用語で、歌詞の中に台詞が入ることを「アンコ」と称しますが、裕チャンのヒット曲の中では、この楽曲と、『嵐を呼ぶ男』(1958年2月発売/作詞:井上梅次 作曲:大森盛太郎)が有名ですね。

今時のコンプライアンスなんぞという無粋な〝縛り〟に照らすと、字面だけ読めば、台風の被害を受けた皆様方を、「あははは……」という、脳天気な笑い声が愚弄しているように感じられるかも?? しれませんが、まったくそんなことではないのです。

作品を鑑賞すれば、すぐ解ることですが、ビルの高層階の足場にしがみつき、わずかでも油断すれば、風速40メートルの猛烈な突風に、簡単に吹き飛ばされてしまう!! 「ここから落ちれば死ぬ!?」……その恐怖を、男っ気のある裕チャンは、あえて笑い声で打ち消そうと、彼は彼で決死の覚悟なのです。本音じゃあ、「笑ってでもいないと、とてもじゃないが、やってらんねぇ」という気分でしょう。

当時、二十歳そこそこの私は、この映像に接し、台風という自然現象が人間にもたらす驚異、恐怖を、リアルに仮想認識させられました。

同時に、台風到来における「風速40メートル」という突風の破壊力は、生死を分けるギリギリのラインなのだ!! と悟らされ、現在でも自意識に強く刻まれているのです。

およそ、ひと月前、殺人的ともいうべき台風15号の猛威が、千葉県南部に住まう皆さんをメッタメタに痛めつけ、傷つけましたね。わが国においては「気象観測史上初!!」というレベルの、最大瞬間「風速57.5メートル」の突風が記録されました。オソロシイことです。

この日、テレビの気象情報を観ていましたら、番組担当の若く可愛らしい女性が、本気で頬を引きつらせたまま、こう話し出したんですよ。

「スミマセン。いま私……、かなり動揺しています。震えています。最大瞬間風速57.5メートルという数字は、研修中にあくまで気象シュミレーションのデータとして、何度か見聞きしたことがありますが、現実に、その規模の風が、数時間前に千葉県南部で観測されました。正直ビックリしてしまって、なんとコメントして良いか? スミマセン、言葉が見つかりません」

とっさに私の脳裏に、裕チャンの映画『風速四十米』のシーンがよぎりまして……。その数字を、はるかに超えた風が、千葉南部を襲いまくったばかりか、横浜やら、わが故郷の大田区も、羽田、六郷、蒲田ほか、けっこうヒドい有り様になりました。

映画作品は、もちろんフィクションですから、企画を立てる際に、現実に起こり得るよりは、多少なり、大幅なり、デフォルメして、観客の恐怖感をあおる……ことが、当たり前に行なわれるはずです。

つまり、映画公開の昭和33年(1958年)当時の常識からすれば、40メートルの風速だって、空想、妄想の範囲でしかなかった!! わけですね。世の中が半世紀以上も経過し、令和元年の秋、映画関係者のイマジネーションをはるかに超える、「風速57.5メートル」の突風を、わが国は体験させられました。

冗談抜きに、日本の自然環境は、今やパプアニューギニアと一緒です。

裕チャンじゃありませんが、たとえコケおどしでも強がりでも、「ナニ? 風速60メートルが何だってンだい。あははは……」と、笑い飛ばしたいところですが、いまだブルーシートだらけの千葉県南部の〝現実〟を、テレビ画面で観せられますと、嗚呼……、気象予報士同様、私も言葉を失います。

「日本に生まれて良かったね」

〝あの日〟の担任教師の言葉は、皮肉にしか聴こえません。

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

 

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