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菅原洋一

昭和歌謡_其の133

昭和100年を記念する 92歳現役の美声・菅原洋一

 「知りたくないの」 「今日でお別れ」
  「忘れな草をあなたに」「アマン」  by 菅原洋一

 

カバー歌手隆盛期

早いもので、昭和100年が暮れていきます。こちらのコラムも、今回が年内ラストの配信ですね。

記念すべき年の最後に、ナニか記念すべき歌手が唄う曲をご紹介したいなぁ、と思い、あれこれ思案しているおりまして……。

たまたまネットのニュースで、菅原洋一が御年92歳でなお、元気にコンサートを開いている! という情報を知りました。

おっ、なつかしい~、菅原さん! まだ生きていたんかい(失敬^^;)、しかもまだ現役バリバリ、歌声を朗々と披露してくれていたんかい。

知らぬこととはいえ、それはそれは、よぉござんした。昭和33年に人気タンゴバンド「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」に参加し、レコードデビューを果たし、ほどなくソロ歌手に転じて、歌手生活は70年にもなりますよ~。これは奇跡的でしょう。

ジャズのプレイヤーを眺めれば、サキスフォンの大御所、ナベサダこと渡辺貞夫が、菅原さんの学年1つ下の92歳(早生まれのため)。クラリネットの大御所、北村英治とピアニストの秋吉敏子は96歳だそうですが、自分の歌声、つまり喉が勝負の歌手は、なかなかそこまでは踏ん張れませんよ。

ひょっとして「生きている」だけなら、戦後に大ヒットを飛ばしたスター歌手の幾人かは、ご存命かもしれません。

でも菅原さんはつい先日、11月21日、上野の東京文化会館小ホールで催したコンサートで、歩行こそかなり危うくなりながらも、いったんステージ中央に置かれた椅子に座った途端、見事! 92歳とはとても思えない美声を聴かせてくれた、……というのですから、これはまさに昭和100年の掉尾を飾るにふさわしい、レジェンド歌手でしょう。

それにしても菅原洋一の歌手人生……。 昭和歌謡の黄金期に活躍したビッグスター歌手、お嬢こそ美空ひばりやサブちゃんこと北島三郎のような、いわゆる流行歌手とは、ちょいとまた別枠のククリになるのですよ。

敗戦後、進駐軍による日本占領とともに、様々な欧米ポップスがドドドと輸入されます。ジャズはもちろん、フランスのシャンソン、中南米のラテン、アルゼンチンのタンゴなど、いずれも多くの日本人が聴いたことのないメロディであり、リズムであり……。ついこの間まで老若男女ともに「鬼畜米英」と罵って来た、憎いはずの国の音楽は、たちまち多くの日本人、それも若者たちの耳に馴染みまくり、レコード会社も、本場のジャズ、シャンソン、ラテン、タンゴのカバー曲を数多く発売します。また、都内にはそれらの音楽をメインに聴かせるジャズバー、シャンソニエ(シャンソン酒場)、ラテン酒場、タンゴ喫茶のたぐいが誕生し、毎夜、その手の音楽を愛好するお客で賑わいます。

そしてカバーを唄う歌手の中から、それぞれビッグスターが現れ、レコードも売れましたし、大晦日に放映されるNHK「紅白歌合戦」にも、美空ひばりや北島三郎たちと肩を並べて熱唱する、お茶の間の人気者になります。

アメリカンポップス&ジャズでは、ペギー葉山に旗照夫、シャンソンではコーちゃんこと越路吹雪に丸山明宏(のちの美輪明宏)、ラテンではおスミこと坂本スミ子とアイ・ジョージ、そしてタンゴでは藤沢嵐子と、今回紹介する菅原洋一というわけです。

(※「学生時代」や「南国土佐を後にして」の大ヒット曲を持つペギー葉山が唄う、ジャズナンバーです)

(※旗照夫は、私や口腔科ドクターの林が通った日比谷高校の大先輩です。ジャズのカバー曲を多く歌ってますが、オリジナルの歌謡曲は、この「あいつ」がヒットしまして、大先輩の看板ソングです)

(※越路吹雪のヒット曲は、有名なシャンソンのカバーばかりです)

(美輪明宏に名前を変える前、丸山明宏時代のレコードで、シャンソンのカバー曲です。この曲のヒットで、彼の存在が世間に認知されます)

(※「硝子のジョニー」の大ヒットを飛ばしたアイ・ジョージが唄う、ラテンのカバー曲です)

(※「たそがれの御堂筋」と「夜が明けて」の2曲、歌謡曲の大ヒットを持つ坂本スミ子が唄う、ラテンの名曲「エル・クンバンチェロ」です)

(※藤沢嵐子が歌うタンゴの名曲のカバー。レコード録音は、アルゼンチンのスタジオだそうです)

ラストソング?

国立(くにたち)音楽大学の大学院まで進んで、本格的に声楽を学んだ菅原でしたが、当時の音大はどこも、クラシック以外の音楽の指導をする教官がいませんでした。タンゴ歌手になることを夢見ていた菅原は、タンゴの本場、アルゼンチンの言語のスペイン語とイタリア語とが、発音も文法もよく似ていることを知り、イタリア歌曲の唱法を身につけることで、タンゴの下地を作ったそうです。

音大在学中から都内のタンゴ喫茶のステージで歌ったのをきっかけに、大学卒業後、「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」に参加し、タンゴ歌手としてレコードデビューを果たしました。

(※菅原がティピカ東京のボーカルを務めていた頃の、貴重な音源です。動画の5分30秒からになります)

その後、ソロ歌手に転向してタンゴの名曲のカバーや、オリジナルの歌謡曲のレコードをかなりの数、発売しましたが、ちっとも売れません。

昭和40年(=1965年)10月5日に、A面がシャンソンのヒット曲のカバー「恋心」、B面が欧米でヒットしたポップスのカバー「知りたくないの」というシングルレコードを発売しますが、所属事務所の社長からは、「この曲が当たらなかったら、悪いが、キミには事務所を辞めてもらう」と宣告されていました。

菅原本人がのちのインタビューで語っていますが、当時の本音の心境では、「かなり自棄っぱちな気持ちになっていて、正直、これが売れても売れなくても、もう歌手は辞めよう! ぐらいに思っていた」そうです。嫌気がさした理由は「売れない」だけではなく、自分が本当に歌いたいタンゴ調の曲は、一切歌わせてもらえず、今度の「恋心」も「知りたくないの」も、「べつに僕が歌わなくたって、他の歌手が歌えばいいじゃないか」というような心持ちだったようですね。

が、なんと! B面の「知りたくないの」が、いわゆる〝夜の商売〟の女性たち、銀座や赤坂などの盛り場のホステスたちの間で流行りだし、それが起爆剤になって、ラジオや商店街の有線放送などで頻繁に紹介されるようになりました。そしてわずか数ヶ月の間に、80万枚を超える大ヒット曲に成長したのです。

洋楽のカバー曲なら、これまでもさんざん歌っています。なぜ、この曲だけがそんなに売れたのか? 両曲の歌詞を訳した人物こそ、菅原の人生を大きく変えることになるのですが……。なかにし礼です。

彼は立教大学の仏文科に在籍している頃から、生活のためにシャンソンの訳詞を手掛けており、一部の関係者には知られた存在でした。石原裕次郎の誘いかけにより、オリジナルの歌謡曲の歌詞も書き始め……、まだまだ音楽業界で「なかにし礼」の名前が浸透してなかった頃でしたから、彼にとっても「知りたくないの」は、勝負の曲だったんですね。

「知りたくないの」
♪~あなたの過去など 知りたくないの
済んでしまったことは 仕方ないじゃないの
あの人のことは 忘れてほしい
たとえこの私が 聞いても いわないで

あなたの愛が 真実なら
ただそれだけで うれしいの

ああ愛しているから 知りたくないの
早く昔の恋を 忘れてほしいの~♪

【この曲のレコーディングには面白いエピソードが残されてましてね。菅原もなかにしも「これ」については、あちこちで話しているので、実話なのでしょうね。初めて歌詞を受け取った菅原は、冒頭の歌詞の ♪~あなたの過去など~♪ の【過去など】が、「日本語の音の響きとして、まず【過去】がゴツゴツとして固く、さらに【など】なんて、歌の歌詞に使って良い言葉じゃない。こんな乱暴な歌詞を書く作詞家がいることに驚いた」……と。

「曲の歌い出しとして【あなたの過去など】は、かなり歌いづらいから、他の言い回しに変えてくれ! 変えなければ、僕は断じて歌わない!」

菅原さん、頑張っちゃっいましたね(笑)。確かにレコードの制作スタッフに「そう」告げたそうです。

これを知ったなかにしは、どうやら本音では「うわっ、ヤバイ、言われちまった」と冷や汗をかいたそうですね。でも当時の彼は、まだ歌謡曲の作詞家として名前が売れてません。繰り返しますが「知りたくないの」は、当時の彼の勝負曲です。「ここで、こんなカバー曲上がりの歌手に舐められるわけにいかん!」というわけで、菅原本人にこう告げたそうです。

「この曲の冒頭は「あなたの過去など」でなくてはならない。何故なら、それがこの歌の肝だからだ。プロの作詞家として、断じて変える気はない。アンタもプロの歌手だろ? プロならプロらしく、作詞家の書いた歌詞を愚痴ってるヒマに、自分なりの解釈で歌い切るべきじゃないか」

嗚呼、なかにしさんも頑張っちゃいましたね(笑)。でも、なかにしの言葉に、ハッと自分の未熟さに気づいたそうですから、菅原さんもたいしたものです。

「知りたくないの」で、ようやくスター歌手の仲間入りを果たした菅原は、2年後の昭和42年(=1967年)3月発売で、カバー曲ではない、オリジナルな歌謡曲「今日でお別れ」(作詞:なかにし礼/作曲:宇井あきら)のシングルレコードが世に出ます。……が、当時はまだ「知りたくないの」の人気が継続していたため、さほど売れませんでした。

でも曲自体は、「知りたくないの」同様、盛り場のホステスたちの間でジワジワと話題になっていたのですね。そこで2年後の昭和44年(=1969年)に編曲家を変えました。加山雄三の「君といつまでも」や伊東ゆかりの「恋のしずく」を手掛けた、売れっ子クリエーターの森岡賢一郎です。歌詞もメロディも同じなのに、曲調はがらりと変わりました。再発売の「今日でお別れ」が12月25日に世に出たところ、これが大成功! ドカンと当たりましてね。わずか半年で30万枚を超える大ヒットに化けたのです。

「今日でお別れ」
♪~今日でお別れね もう逢えない
涙を見せずに いたいけれど
信じられないの そのひとこと
あの甘い言葉を ささやいたあなたが
突然さようなら言えるなんて

最後のタバコに 火をつけましょう
曲ったネクタイ なおさせてね
あなたの背広や 身のまわりに
やさしく気を配る 胸はずむ仕事は
これからどなたがするのかしら

今日でお別れね もう逢えない
あなたも涙を 見せてほしい
何も云わないで 気安めなど
こみあげる涙は こみあげる涙は
言葉にならない さようなら
さようなら~♪

「知りたくないの」と「今日でお別れ」のビッグヒットにより、菅原洋一は、昭和歌謡の黄金期にはなくてはならないスター歌手に成長しました。

私が好きな彼の看板ソングを、あともう2つ紹介して、この稿を終えたいと思います。

「忘れな草をあなたに」(昭和46年=1971年1月10日発売/作詞:木下龍太郎/作曲:江口浩司/編曲:森岡賢一郎)

この曲は、倍賞千恵子も看板ソングにしているほか、日本の抒情歌として、中学や高校の音楽の時間にも歌われるようになりました。

♪~別れても 別れても 心の奥に
いつまでも いつまでも
おぼえておいて ほしいから
しあわせ祈る ことばにかえて
忘れな草を あなたに あなたに

いつの世も いつの世も 別れる人と
会う人の 会う人の
さだめは常に あるものを
ただ泣きぬれて 浜辺につんだ
忘れな草を あなたに あなたに

喜びの 喜びの 涙にくれて
抱(いだ)き合う 抱(いだ)き合う
その日がいつか くるように
ふたりの愛の 思い出そえて
忘れな草を あなたに あなたに~♪

ラストは、菅原洋一のヒット曲の中で、唯一のデュエット曲「アマン」(昭和57年=1982年11月発売/作詞:杉紀彦/作曲:森田公一/編曲:竜崎孝路)です。
https://www.youtube.com/watch?v=6XjeDuC_mro&list=RD6XjeDuC_mro&start_radio=1

 

菅原さんの相方を務めるのは、ムード歌謡グループの老舗、棚橋静雄率いる「ロス・インディオス」の女性ボーカルのシルヴィアです。彼女はこの曲のヒットをきっかけにして「ロス・インディオス」を離れ、ソロ歌手になりました。

この曲、私はメチャ大好きです。今でも時々、カラオケで歌います。歌ってくれる相手がいなければ、1人でも(笑)。前にも何度かこちらのコラムに書かせてもらいましたが、シルヴィアのような、ややタヌキっぽい「困った風な」顔立ちの女性が、私のタイプでしてね。

今年のラストソングの動画の、わが愛しきシルヴィアを眺めながら、この曲が流行った昭和57年、二十歳だった頃の私と、いま63歳の私、43年の月日の長さは、まさしくハゲ茄子頭が象徴してますけれど、その頭の中身、オツムの出来の悪さは少しも変わってない気がして、嗚呼ナサケナイ^^;。

大いに反省「だけ」はして、昭和100年を終えることにします。

皆さん、良いお年をお迎え下さいませ。

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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