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昭和歌謡 番外編

昭和歌謡_番外編

「文明の逆説/立花隆」を読んで

『文明の逆説』立花隆

ことあれかし

今回は、昭和51年(1976年)12月に発売された単行本に、著者みずから加筆・修正を加え、昭和59年(1984年)に文庫化された本を紹介させて頂きましょう。ただ……、スミマセン、いつものような流行歌謡の本じゃありません。

内容は、小説や気軽なエッセイの類じゃなく、戦後昭和を代表する稀有な総理大臣であった、角さんこと田中角栄総理を、月刊誌・文藝春秋に連載した『田中角栄研究』に「ロッキード疑惑をぶちまける」という格好でみごと退陣させ、その後、日本初の総理経験者の逮捕にまで追い込んだ、〝あの〟立花 隆先生(以降敬称略)が書いた『文明の逆説』だというのだから、嗚呼オソロシイ。例によって屁垂れな私は、ほんの巻頭の文章に触れただけで、たちまちキョドってしまいましてね。

ひょんなことで私、これを読んで感想文を書かなきゃならなくなりました。何故? まぁ、それを訊いちゃあ野暮というもんでっせ、お歴々の皆サマ(笑)。決まってるじゃねぇですかい、ご想像の通りでございます。はい、じゃ、行かせて頂きますね。

立花は、世間的には知の巨人だの博覧強記だのと称される、気骨溢れた大人物であることに皆さんも異論はないでしょう。本人の自己評価よれば、人間は目の前に呈される事象を「ことあれかし」と願うか?「ことなかれかし」と願うか? の違いによって、気質的に二分割できるんですって。立花は、「私は明らかに前者だ」と言い。さらに「ことあれかし」人間にも二通りあって、「こと」が起きた時に行動者として参加する者と、野次馬として見物に回る者がいる。彼は明らかに「後者の典型で、野次馬としてはかねがね一流の域に達している」との自負があるとおっしゃっております。

そのココロは、とにかく「〝こと〟が起きたら現場にできるだけ早く駆けつけて、〝こと〟の全体像が眺めわたせる見通しのきく場所を確保する」ことにあるのだと。

立花にとって、旺盛な野次馬精神をくすぐる対象は、如何なるジャンルのどんな細かな事象でも構わないのでしょう。学問のジレッタントを自称する彼は、「おそろしく興味と関心の幅が広い」らしく、「プロ野球と競馬以外ならたいていのことに関心がある」そうな。……まぁ、でも、世の中に2つぐらいは関心がないこともある、というのも御愛嬌でしょうな。なぞと、如何にもの訳知り顔で物申せば、たちまち誰かさんにドヤサれましょうか^^;。

それはともかく、歳を重ねるごとに湧き出る好奇心の赴くまま、彼の執筆ターゲットも次々と変わり、百万部雑誌になった少年マガジンやら田中角栄やら……、晩年は自分が体験した「臨死」についても著しています。そんな立花が『文明の逆説』を書いて、読者に問いました。

「(昭和51年当時)貴方は本当に幸せですか?」、「毎日の生活は本当に充実していますか?」と。

愚かな裸の猿

昭和20年8月15日の敗戦によって、肉体はおろか神経の芯棒に至るまで徹底的に叩きのめされた日本人は、その後持ち前の生真面目さ、努力を惜しまない国民性のおかげもあり、奇跡的に経済成長を叶わせたんですね。それも、そんじょそこらの半端な成長じゃない。年平均10%前後の〝すこぶる〟高い実質経済成長率を維持しつつ……、の昭和40年代後半、科学技術のテクノロジーの〝すこぶる〟革新的な進化も相まって、大手企業を筆頭に重化学工業化が加速度的に進みました。まさしく文明の計り知れない発展をもたらし、そしてついに、冗談でも妄想でもない世界第2位のGNPを達成するに至ったのです。

巷の道を我が物顔で走りまくる自動車が急増しては渋滞まで起こすほど。洗濯は電気洗濯機に放り込めばいい、掃除も箒で掃かずとも電気掃除機でささっと済ませられる。わざわざ氷を取り寄せなくても電気冷蔵庫が冷やしてくれる。どこの家庭にも大きさはまちまちなれど、テレビ、それもカラーテレビが〝当たり前〟に映り出す。かつて誰もが憧れた「夢のような」生活を手に入れたはず、……だったのですが。

その文明の発展と引き換えに、大気に放出される車の排気ガスや工場の煤煙、河川や海に垂れ流される工場の廃液、結果汚臭を放ちながらブクブク不気味に泡立つヘドロなどなど。あまつさえ空を見上げりゃ光化学スモッグとやらで空気が霞み、体育の時間に校庭で運動をすれば、たちまち目が痛くなる。「公害」の二文字がテレビのニュースや新聞に載らない日は無くなりましたっけ。

はて、我々は利便過ぎる生活と引き換えに「大切な何かを手放してしまったのではないか?」、「そもそも動物であるべき人間の身体性が、確実に蝕まれていやしまいか?」……、誰しも薄々と感じ始めたこの疑問を、「ことあれかし」主義の立花が、一流の野次馬として徹底して取材しまくり、文献を繙きまくったのでした。

結果立花は、人間が望んで叶えてきた文明の「進みすぎてしまった」副作用として、かえって皮肉にも人間の生活を脅かしてしまう! そんな本末転倒とも言うべき、愚かし過ぎて笑うしかないような現実を、まさに「文明の逆説」だと看破したのです。

以下、立花が説く「文明の逆説」の具体的症例を抜き出すと、

太古の昔から、古今東西の人間が脅かされ続けてきた微生物の病原体による感染症は、重症化すればまず助からない。このまさに人類の天敵ともいうべき憎き病原体を「なんとしても滅ぼしたい」という長年の人類の切なる願望は、公衆衛生の進化と抗生物質の発明という文明の進化によって見事に叶い、感染症患者の死亡率は見事激減した。これはまさに「夢のような」現実に間違いないし、誰もその成果に疑いを挟むことはないでしょう。しかし「感染症で死なない」ことが日常的に普通になれば、当然ながら人口が比例的に急増してしまいます。特に都市部では、その傾向がより顕著になりました。

その結果「逆説」として、どんな禍が人間にもたらされたか?

立花いわく、いかなる生物も例外なく、自分が生存する空間に限界を超えて仲間が集まり過ぎれば、ストレス過剰な環境となり、それに耐えきれず、決まって、ある種の身体的な変異(内分泌的なものを含む)をもたらしたり、異常行動を起こして大多数が死ぬ運命にある。……と、豚の自殺のケースなどを示し、これは科学的な事実であって、つまり自然では、「あらゆる生物は人口調節をするものだ」と説いています。

では人間はどうか? 人間だけは例外なのか? 現在の人間界でも、明らかに精神に異常を来している、とても多様性では片付けられない子供たちが増え、種族維持機能である生殖能力に欠陥が生じるインポテンツ患者や、変態性倒錯者も増え、自己免疫疾患である慢性関節リウマチなどの難病患者も増え、子供の白血病患者も増え、不妊症の女性も増え、喘息や(当時に名称はなかったが)花粉症やアトピー性皮膚炎などのアレルギー疾患も増えている。これらは間違いなく、人口が急増したことにより、人間がストレス過剰な環境に置かれ続けたことによる、異常な生体反応であろうとしている。

すでに昭和51年に立花は、その実態を一流月刊誌である文藝春秋を通して世間に公表し、このまま何も対策を講じなければ「日本の未来は危うい」と警鐘を鳴らしていました。しかし、政府はもちろん我々大衆も、何一つ具体的に対策を講じて来なかった。その結果、令和の現在、膨大な数の日本人が、例えば大人も子供も何かしらのアレルギー疾患に悩まされております。かく言う私もね、石鹸が合わないと肌が荒れて痒くなるなどと、一切何も顧みず騒ぎ立てまして、本書を読みながら、冗談抜きに申し訳ない心持ちになりました。

宇宙船「地球号」
このタイトルの章の内容が、これまた実に興味深かったですね。地球は小さな宇宙船であって、世界中の人々は誰しもみんな宇宙船の乗客なのだ、したがってわれわれの安全は、この宇宙船の安全と平和にかかっていて、すべては「配慮と作業」の厳密な施行によってかろうじて破滅をまぬがれている。という……この御託宣は、アメリカの元国連大使によるものだそうで。

この言を紹介したルネ・デュポンは、「人間は大地に生まれ、大地の影響のもとに進化し、大地によってかたちづくられ、生物学的にいって永久に大地から離れられないのである」と説いてます。さらに、「人間は空気、土、水など天然の資源は無限な蓄えがあり、人間の利用できる地域は限りがないようにふるまってきた」と。
立花は憂います。「動物としての人間の能力の限界を忘れて進んできた文明は、その限界を今まさに越えようとしている。文明の廃棄物が生んだ公害は、人間の生存の条件である水と大気と食物を、三つすべて侵しはじめた」と。

私たち人間が「地球号」という宇宙船の乗客であることを明確に認識しさえすれば、乗客には守らなければならぬ「一定のルールがある」ことは当然の話でしょう。そこには「絶対にしてはならない!」タブーだってあるはずで、それを無視して、自分たちの為だけにわがまま勝手な欲望を垂れ流してはならないことなんて、真っ当な了見の持ち主なら即座に理解できるでしょうに。昨今では、「アメリカが一番! アメリカが最優先!」などと臆面もなく公言して憚らない、トランプのような破廉恥大統領が、さも「地球はすべて私のモノだ!」とばかりにワガママ放題な振る舞いを繰り返す、もし今この時を、立花が生きていたなら、どんな言葉で糾弾するでしょうか。

いつから人間は、これほどまでに傲岸不遜な生き物になったのか?

立花はこう指摘します。
「ヒト属は動物界の中では明らかに弱者に属する。それにもかかわらず、地球上で支配権をにぎることができたのは、ヒトが裸のサルとしての人であるにとどまらず、人間、つまり文明を作り出す者となることによってであった。人間の生体適応能力は極度に低い。温度、気圧、酸素濃度、摂取食物、どの一つをとってみても、ヒトの生息が可能な範囲は狭すぎるほど狭い。しかしそれを文明が作りだした人工環境によって次々と拡大してきた。(中略)文明は人間の行くとして可ならざるところはなきがごとき幻想を与えた。さかしらぶった人間は、ほとんど自分がヒトであることを忘れかけていたようだ。(中略)脱自然文明の成功に酔った人間は、いつのまにかそれによって脱動物化にも成功したと思いこんでいたようである。文明の主役である機械がそうであるように、当然、文明の主人公である自分たちも、自然から切り離されて生きていくことができるかのような幻想をいだいてしまっていたようだ」

嗚呼そうだそうだ、幻想、幻想! その通りですよ、立花センセイ! と思わず声に出したい気分になります。貴方が本書で憂いたとおり、予言した通り、この本が刊行されてちょうど半世紀後の日本は、日本人は、生まれながらデジタルツール満載の環境に育った若い世代(Z世代なぞと称されますが)を中心に、自分が「生身の人間である」ことを忘れ、まさしく「文明が作りだした人工環境」が行き過ぎてゆくことを憂うよりも、むしろ自ら進んでもっと自分が機械化(携帯がないと生きていけないなど)されてでも、更なる身勝手で都合の良い人工環境を欲している。齢60過ぎたハゲの私にはそのように感じられます。

そして立花はこうも忠告しています。
アフリカの原住民の聴覚テストを行ったところ、90メートル隔てた先の、「ささやかな声まで聞きとることができた。視力も全員完全だった。嗅覚や夜間の視力において未開人がすぐれているのは環境のなせるわざだろう。しかし、だからといって文明が感覚能力を退化させているとはいいがたい。(中略)人間の感覚というのは、じゅうぶんな動機さえあれば、その潜在能力をかなりひきだすことができる。問題は環境が感覚のどの面の開発を要求するか、なのである。(中略)いまわれわれは再び感覚に対して、生存のためにもっと働くことを要求しなければならない」……と。

いくら「夢のような」現実だからといって、文明が作りだした人工環境なぞに酔いしれ、至福の喜びを感じている場合じゃない! のです。人間はしょせん「サルよりは賢く、神よりは明らかに愚かな」動物の一種族であることと、宇宙船「地球号」の乗客の一人であることを、ゆめゆめ忘れずに、文明が進みすぎた現代社会をしっかりと捉えて生きなければなりません。

本書の中で、すでに立花はクローン植物や動物についても触れておりまして、「おそらく十年以内にカエルぐらいなら組織培養できるだろうといわれている」、「クローン動物ができれば、クローン人間までは、あと一歩だ。クローン人間というと奇異な感じだが、人工の一卵性双生児と考えてもらえばよい」としつつも、「クローン人間を作るにはあまりに問題が多い。(中略)しかし、どこかの国でクローン化による科学者、技術者の大量生産をはじめたとしたらどうだろう? 核兵器の戦争と同じことが起こらぬとはいえまい」とし、分子遺伝学の研究の〝すこぶる〟な進化を、手放しに「夢のような」文明だと受け入れる気にはなれない! 自分の心持ちを素直に吐露しています。

さらに分子遺伝学の教授の言った言葉では、「分子生物学は、ちょうど今、核物理学が原子爆弾を生み出したような時期にきています。善意の研究でも、その技術を用いればとりかえしがつかぬほど恐ろしいことができるということです。(中略)このまま分子生物学を発展さすべきかどうかさえ問題です。ともかく、あらゆる研究の完全な公開と、研究に対する批判学のようなものを作る必要があるでしょう」……を借りて、「我々人類の運命を決めるのは、我々自身だ。また、我々には選択の余地が残されている。しかし、間もなく、このままいけばもう引き返すことができぬ地点まで行きついてしまうだろう」と書いて、人間の自覚なしの文明崇拝に危機意識を持つように促しています。

その上で令和の現在……。分子遺伝学に関わる学者先生は、半世紀前のこの立花の御託宣をどう聴くのでしょう? 自分および仲間の研究を、批判的に捉える学者先生は、どこかに〝たった一人〟でもおられるのでしょうか? スーパーの店頭に並ぶ納豆や豆腐など「輸入大豆」を用いた製品の中に、遺伝子組み換えのブツが紛れていても、私たちの多くがさほど驚きも騒ぎもしなくなった日常を想う時、さらに一昨年、日本でも「遺伝子を改変したクローン子豚が誕生した」などと報道される中、立花同様、とてもこのニュースを手放しで喜ぶ気になれない私がいます。いやハッキリ言えば猛烈に「気色悪い!」です。

必要は発明の母という諺があるように、人間は、現状おかれている自分の生活に不便を感じると、〝そう〟でなくするにはどうすれば良いか? 知恵を働かせるものです。さまざまなジャンルの学者、研究者たちの知恵、知的好奇心をくすぐることで、私たち大衆は、それまで見たこともない「夢のような」文明の利器とご対面できます。

子供時代、初めてわが家に電気洗濯機と瞬間湯沸かし器が「やって来た」日を、今でも覚えています。昭和40年代なかばの日本人の多くは、洗濯物を洗うには、水を張った盥と洗剤と洗濯板を用い、自らの手でゴシゴシ擦ったものです。寒い冬は薬缶で沸かした湯を盥に注いで、かじかむ手を温めたりもしました。また、すでに大人になっていましたが、長年の切れ痔に悩んでいた私……、テレビCMなどで紹介されるTOTOの「ウォシュレット」なる、肛門を自動洗浄してくれるツールを、初めて自宅で使用した日の快い心持ちは、まさに「夢ごこち」でありました。

自動的に機械が「勝手に洗濯をしてくれる」、「勝手に湯を沸かしてくれる」、「勝手に肛門を綺麗にしてくれる」……、これが叶うのは、ひとえに科学テクノロジーの進化、コンピュータの自動制御システム開発の賜物に他なりません。

ただね、まさしく「文明の逆説」というヤツでありましょうが、私は現在、ウォシュレットが無いトイレでは排便ができなくなりました。「自分で出したものぐらい、自分で拭きやがれ!」という、幼い子供でも理解できる真っ当な常識を、「俺は切れ痔なんだから、しょうがねぇじゃん」なんてのはなはだ身勝手、理屈にすらなってない、ただの気色悪い言い訳に引きずられるまま、ボタン一つで肛門を洗うという、実に短絡的な処理に頼ってしまったがため、「紙を数枚ほど使って、肛門周りの汚れを拭い取る」そんな面倒な作業を、とてもじゃないが、もう今更する気になれない! のです。

ウォシュレットのトイレがありながら、何故か、かれこれ十数年、一度もこれほどの文明の利器を使ったことがない、わがカミサンは、私を指して、「アンタは、大地震などの非常時には生きていけないわね(笑)。ウォシュレットがなきゃウンチができないヤツは、避難所で村八分にされるに決まってるもん」と手厳しい。しかし、彼女の言葉は的を射ています。ボタン一つで「肛門を洗い流す」快適さを知ってしまった私は、すでに自分の肉体である「手」を動かし、肛門もモゾモゾ動かし、紙を用いて〝器用〟に〝綺麗〟に汚れを拭き取るという身体機能を、みずから放棄してしまったようでして……。

先日の東京新聞の1面に、「スマホ依存の子、『いる』46% 全国の小中高対象」という大きな文字の見出しが躍りました。全国保険医団体連合会という組織の調査だそうで。これを読むなり、私は即座にそばにいた、齢91のお袋に愚痴りました。

「46%なんて甘いよ! 俺が勤めている塾の生徒の、小中高校生のほぼ全員が依存症で、夜中までスマホのネットゲームだぜ。だから学校でも塾でも常に眠たくってしょうがない。授業中も俺が目を離すと、すぐにスマホを弄りだし、好みの動画を観たりネットゲームに興じるから、学生講師の一人が強制的に取り上げたんだよ、授業が終わるまで。そしたら、ある女生徒のママからクレームが入った。学校ならまだしも「塾でそんなこと有り得ない!」、人権侵害なんだそうな。バカだろ? でも、さらに輪をかけて社長もバカだから、何の反論も出来ねぇどころか、あろうことか学生講師をキツく叱責しやがった」……、おいおい、学校ならまだしもって、ど~ゆ~ことよ? 塾長、そこは反論しろって!

記事の中で、取材に応じた都内の養護教諭の視力についてのコメントとして、「スマホが当たり前じゃなかった頃は、小学校入学時は、ほぼ全員が『A』(視力1.0以上)だった。今は0.3が少なくない。低学年で 0.1未満という子もいました」……と載っていました。私がすでにウォシュレット無しでウンチが出来ないように、令和8年の子供たちの重要な身体機能の一つである視力が、本来の人間が持つべき「性能」に比べて著しく低下してしまった訳です。

文明の利器とやらの登場で、私たちの生活のかなりの部分において、「ボタン一つ押せば簡単に事が為される」利便性を体感することとなりました。コンピュータによる自動制御システムを装備したさまざまな道具(ツール)の登場で、それまで膨大な時間をかけて成し遂げねばならぬ作業の、大幅な時間短縮が可能となったのです。これはすこぶる快適でありまして、欲望のおもむくまま、さらに「もっと便利に!」、「もっと早く簡単に!」と、文明をあまりに過ぎた進化をさせしまった結果、愚かしくも人間が本来、自分の手を動かして行うべき事柄まで「何でもかんでもボタン一つ」で処理させたい! こんなはなはだ怠惰な欲望を、多くの人間の心根に宿らせました。

でも、まだ〝ここ〟で留まれれば、救いはあったのかもしれません。ところが人間の欲望はオソロシク破廉恥なまでに貪欲でして、作業時間の短縮に味をしめた挙句、あろうことか生身の脳味噌を使って「じっくりモノを考える」という行為自体の、時間短縮をも希求してしまった。

世の中に散らばっている過剰なばかりの情報に怖気づかず、むしろ果敢にその情報の正体を真っ当に見極めるべく「がっぷり四つの戦い」に挑まんとする、さしずめ立花先生のごとき御仁の、爪の垢すら煎じて飲む気のない、つまり「じっくりモノを考える」心持ちの欠如した人間たちは、自分が抱えている様々な問題を、まるでボタン一つで熱湯が出てくる瞬間湯沸かし器のごとく、いともたやすく処理ができまいか? と考えるようになったのです。

立花の警告は、本来、何か一つの事象を理解するには「問い→探索→矛盾→統合」という真っ当な思考のプロセス回路が必須であるはずなのに、現代(昭和50年ごろ)の科学テクノロジーおよび様々な情報提示の方法は、この回路を短絡化(ショートカット)させ、「手っ取り早く答えだけを知る!」という、結論の快感だけを脳に直結させる迂回路を作ることに余念がない。するとその先に、どんなリスクが待ち受けているか? 電気抵抗の加減などを無視して、無理やり配線を短絡化させて電流を流せば、ほどなく火花を散らしてショートするのと同じく、思考における短絡化もまた、いずれ人間の知性の回路を焼き切ってしまうだろう、と。

本書の中で私が気に入った表現として、人間は「サルよりは賢く、神よりは明らかに愚かな動物の一種族である」というのがありまして、サルとの違いは脳味噌の働きの賢さ、「じっくりモノを考える」ことにある。にもかかわらず、私たちは、人間として最も大切な〝その〟行為を、かつて流行ったTVのクイズ番組「タイムショック」のオープニングの決まり文句よろしく、「現代人は時間との勝負です」とばかりに盲信し、いつしか手抜きするようになりました。

たとえば、提出期限が迫ったレポートの作成時、必要な資料集めに自分の手足を動かし、全身に汗を掻きつつ走り回ることをしなくても、コンピュータが欲しい答えを簡単に与えてくれる世の中になりました。さらに時代が進み、科学テクノロジーも進化すると、本来ならば何冊もの分厚い書籍文献の内容把握は、自分自身の脳味噌に汗を掻いて行うのが当然だったのに、生成AI(人工頭脳)とやらに「お願い」すれば、ほどなく「要するにこの本は◯◯です」と教えてくれて、それを臆面もなく自身の考えのようにしてしまえる世の中になったのです。

……とここまで原稿を打ち込んで、むむむ、待てよ! どうして俺は立花と〝同じ立ち位置〟で、イイ気になってモノをほざいてんだ? と今頃になって急に、背筋をヒヤリとした汗が一筋垂れ落ちたのです。

私は先ほど、いかにも上から目線で、「さしずめ立花先生のごとき御仁の、爪の垢すら煎じて飲む気のない、つまり『じっくりモノを考える』心持ちの欠如した人間たちは、自分が抱えている様々な問題を、まるでボタン一つで熱湯が出てくる瞬間湯沸かし器のごとく、いともたやすく処理ができまいか? と考えるようになったのです」……なぞと書きましたけれど、あらら、ひょっとしてさ、もしかしてさ、コレって俺のことじゃね!?

いやいや『!?』なんて付けて首を傾げていやがる場合じゃない。立花先生の爪の垢すら煎じて飲む気のない、愚かしい人間のクズは、他ならぬハゲおめぇのことじゃないか。それが判らんのか!
ゴツン! どこぞのアノ誰かさんに、思いっきり頭のてっぺんにゲンコを喰らった感覚が、突然、私の全身、全神経を猛烈な勢いで駆け巡りだしました。

嗚呼……、ヤッベェ~、嗚呼、そうか! と屁垂れながら、私もようやく気がつきました。

そうか、そうだったのか^^;、「文明の逆説」の中でさんざん立花先生が「警告」を発する、その矛先に、令和の現在、あまりにドンピシャ当てはまる張本人は、このハゲ、オハズカシクも私自身じゃねぇかよ、馬鹿野郎! と今更ながら判ってしまったのです。

そしてまた、アノ誰かさんが私に「文明の逆説」を半強制的に読ませ、感想文の執筆を命じたのも、私に「それ」を自覚させんがため、だった……わけですね。

なのにハゲは、嗚呼……、なのに不埒なハゲは、まーったくそんなココロに1ミリも届くことなく、例によって臆面もなく本書の冒頭から、立花センセイの深い見識に、いちいちオッタマゲ、共感、納得……までは良いが、嗚呼……まさかまさかの大いなる分別違い、あろうことかすっかり私も立花先生の側(がわ)に立ち、立花先生の虎の威を借って、なんとまぁ、本来、私のお仲間のごとく愚かしき破廉恥な人間どもを、ガンガンと叩きまくり、あまつさえ日本の未来まで憂いてしまいました。そんな資格など「ツユほどもない!」にもかかわらず。

ミモフタモナイ結論になってしまいますが、この本に書かれている立花先生の御託宣はすべて、私の60数年の生い立ちに対する、猛省を促すべく「警告」だった、と読み解かなければ、ここ数週間、久しぶりに一冊の書物と嘘でも真剣に向き合い、屁垂れでもハゲでも(これは関係ないか!)多少なりとも「じっくりモノを考えて」みた〝振りをした〟私として、情けなさ過ぎます。……そのことだけは、ハッキリと認識いたしました。

だとすれば今、……ともかく今後私は何から始めりゃ良いのでしょう? 毎日の排便の際のウォシュレットは、ゴメンナサイ、今更手放せません。……ので、まず私が思いつくこと。塾の生徒のスマホ依存を嘆いている私自身も、間違いなくスマホ依存に陥っているはず、ですので、何かを調べる際に、即座にスマホを掴み、わがポンコツ生成AIに質問するのを、「ちょいと待った!」して、自分の頭で思考する習慣を取り戻すところから始めましょう。

取り戻す? ええ、取り戻しです。だっていくらクズな私だって、生成AIはおろかスマホ、パソコン他あらゆるデジタルツールが日常に「勝手に割り込んで」来ない時代、ざっくりと昭和時代は、ちゃんと自分の足で欲しい資料を追い求め、出来の悪い脳味噌に鞭打って、きちんと自分なりの結論を導き出していたはずですから。なぁに、その時代の感覚をわが身に蘇らせりゃイイだけのことですから。やりゃあ、やれないことはないはず!

と、……嗚呼、懲りないハゲでございます。いつもの呑みミーティングの時に誰かさんの前で、ふとそう宣言しましたら、ホントに冗談抜き、いささかホッとして、大きく欠伸なんぞをした時です。ふいに……、立花先生ならぬ、アノ誰かさんが言い出しました。

「おいハゲ、おめぇはまた、いかにも安易に『昭和時代の感覚を蘇らせる』と、ほざきやがったな。じゃあ、訊くが、デジタル情報が蔓延している令和の世の中で、どうやってそれを蘇らせるんだよ? オモシれぇ~! どーやったらそれが出来るンか具体的に俺に話してみろや」

ン? どうやって蘇らせる? はぁ? そ、そりゃあ、さ……。瞬時に青褪めてしまったハゲの胸中は、書かずもがな、ですよね。「ハゲのそういう了見こそ、立花は一番愚弄してたんじゃねぇのかい?」という、べらんめぇ口調の声はまだまだ続きます。

「あのな、ハゲちゃん! 自分の昭和の感覚を蘇らせることが文明の逆説に触れないための答えなんかい? だって時代は十分に変わっちまってて、元に戻すようなベクトルが働く余地のないところまで来てるんだぜ。だったら、立花が言いたかったことはさ、物事、文明でも何でも、いちいちちゃんと是々非々を吟味して、それなりの自身の解釈をもってなさいよってことじゃないの。だってさ、俺もウォシュレットは手放さねぇよ、ってか手放す必要がないね。お前、ウンチする時、ウンチする前にウォッシュしねぇ? 排便の呼び水しねぇか? この行為は医学的には合ってるのよ。肛門周りにある括約筋の中にセンサー(感覚受容器)があって、温水でそれが刺激されると便意を催すって、ちょー自然でアナログな生体反応よ。でな、排便という行為は意外と身体にストレスを掛ける仕事で、すみやかにスルスルと排便行為が出来ることは、血圧を過剰に上げないし、肛門を傷つけることもない。良い悪いで言ったら、良いことなのよ! 何で今さらこれを手放さなきゃ文明の逆説に触れんのよ? これはただの文明の恩恵よ。だからさぁ~、皆でいつも思考を短絡させないように、恩恵なのか、逆説なのかを意識して生きていけりゃ、文明の逆説に触れるようなある一線を文明が越えることはないんじゃないの。よぉわからんけど」

……だそうです。へへっ、ま、これについちゃ、今度懸命に私も私なりに取り繕うこととして、今は取り急ぎスルーしますね。

そして皆さんにも先に述べた軽挙な妄言を「ゴメンナサイ」とついでにペコリと謝っちまっといて、今回、立花の至極真っ当なご託宣を少しでも届けられたのなら至極幸いってなもんで、「昭和歌謡」コラムの番外編は、はいおしまい。おあとが、………はぁ~、これじゃちっともよろしくないでしょうなぁ~! ちぇ!

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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