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橋幸夫

昭和歌謡_其の130

作曲家・吉田正の世界(「青春歌謡」編)
吉田門下の超秘蔵っ子!橋幸夫を偲んで(その1)

「いつでも夢を」 by 橋幸夫&吉永小百合 

「若い東京の空の下」by 橋幸夫&吉永小百合

「潮来笠」 by 橋幸夫

「美しい十代」 by 三田明

 

辛子色?

今年の夏のキチガイじみた猛暑。9月半ばを迎えてようやく〝ほんのちょこっと〟明け方だけは、涼しくなったような気配を感じますが、いやぁ、昼下がりの気温は、全国的にまだまだ軽く30度を超えておりますです。

毎年この時期に書く歌謡コラムには、私が大好きな太田裕美のヒット曲「九月の雨」(昭和52年9月1日発売/作詞:松本隆/作曲:筒美京平)に触れるんですけれど、今年はその気にならない、いや、とても「なれない」ほど毎日が暑くて暑くて……。

数日前、地元の高崎市内のスーパーに買い物に行った際、メチャ冷房が利いている店内に入った途端、聴こえて来たのは「九月の雨」ならぬ「September」(昭和54年=1979年8月21日発売/作曲:林哲司)。竹内まりや本人の述懐によれば「はなはだ不本意ながら」アイドル扱いされていた頃の、ヒット曲ですね。

♪~辛子色のシャツ追いながら 飛び乗った電車のドア
いけないと知りながら 振り向けば隠れた
街は色づいたクレヨン画 涙まで染めて走る
年上の人に会う 約束と知ってて

September そしてあなたは
September 秋に変わった
夏の陽射しが弱まるように 心に翳(かげ)がさした
September そして九月は
September さよならの国
解(ほど)きかけてる愛の結び目 涙が木の葉になる

会ってその人に頼みたい 彼のこと返してねと
でもだめね気の弱さ くちびるも凍える
September そしてあなたは
September 秋に変った
話すことさえなくなるなんて 私に飽きた証拠
September そして九月は
September さよならの国
めぐる季節の色どりの中 一番淋しい月

借りていたDictionary 明日返すわ
“Love”という言葉だけ切り抜いた後
それがGood bye  good bye

September そしてあなたは
September 秋に変った
私ひとりが傷つくことが 残されたやさしさね
September そして九月は
September さよならの国
トリコロールの海辺の服も 二度と着る事はない~♪

これが流行った時、私は高校2年の秋で、売れっ子作詞家の松本隆が書いた歌詞の、「夏休みの間に年上の女に彼氏を奪われた」という失恋話には、さしてピンと来ませんでしたが、冒頭の辛子色のシャツには、何故かやたら刺激を受けちゃいましてね。

辛子色って表現がまず耳に新鮮で、それが、わが家にある赤い七色唐辛子ではなくて、黄色い和辛子の色を指すのかな? ぐらいのことはわかりましたけれど、はて世の中に、和辛子色の、つまり黄色でもオレンジ色でもない、少しくすんだ暗みある黄色、そんな色のシャツを来た若い男なんて、いるんだろうか? 愚かにも、そんな風に考えてしまって。

しばらくその疑問が消えずにいたので、思い切って、同級生のT田ってヤツに訊いたんです。彼の実家は東京大学の赤門そばで喫茶店をやってたのですが、マセた感覚の野郎で、エロ本を初めて見せてくれたのもT田でした。

「いま流行ってる竹内まりやのセプテンバー、あの辛子色のシャツて、どんな色したシャツなんだろ?」

彼はしばし首をかしげてから、「たぶんマスタードの色じゃねぇか。和辛子じゃなくて洋辛子のマスタード。俺んち、ホットドックを出すから、ケチャップとマスタードは必需品だよ。でもなぁ、たしかにさ、マスタード色のシャツ来たヤツなんて、見たことないよな」と答えてくれました。

和服の世界で、辛子色に似た山吹色の着物は秋の定番色だそうですが、昭和54年の秋の時点で、若者向けファッションの「辛子色のシャツ」は決して一般的ではなかった。ヒットメーカーの松本先生のことですから、そんなこと百も承知であえて歌詞に書き、私のように「ン?」と引っかかる効果を狙ったのかもしれません。竹内の歌声が巷に流れまくるにつれ、大手のアパレルメーカーはこぞって辛子色のシャツを売り出したとか。

いま改めて「セプテンバー」を聴いてみますと、曲調が「九月の雨」のようにマイナー(短調)でないために、かえって恋に破れて泣きじゃくる主人公の女の子の情感が、しみじみと伝わって来ましてね。こりゃ昭和歌謡の名曲だな、と新たな認識を得ました。

秘蔵っ子、逝く

……という訳で、このまま「セプテンバー」を含めて9月の季節に似合う歌謡曲を取り上げようか、という気にもなるのですが、いいや、それは出来ません。何故なら、つい先日の9月4日、昭和歌謡全盛期のビッグスター、橋幸夫が亡くなったからです。享年82歳。ネットの情報によれば、アルツハイマー型認知症が急速に進み、死因は誤嚥性肺炎だそうで。

ナニが驚いたって、今回のコラムの内容は、敗戦後の高度経済成長期に、夜の都会の盛り場の匂いをそのまま歌謡曲に盛り込んで、「ムード歌謡」なる新たな音楽ジャンルを生み出した、作曲家・吉田正の新たなヒット戦略である、「青春歌謡」と「リズム歌謡」の名曲を紹介……の予定だったのですが、その中心人物と言いましょうか、吉田が育てた男性歌手のうちで「最も可愛がった、秘蔵っ子中の秘蔵っ子」であり、「吉田メロディの最大の表現者」と言わしめたのが、他ならぬ橋幸夫だからです。

まさかその御当人が、こんなに早く彼岸へ旅立つとは思ってもみませんでした。まるでアノ世の彼から直々に、「竹内まりやのセプテンバーなんぞに浮気せずに、吉田先生に書いていただいた、僕のヒット曲の数々をちゃんと紹介してくれよ!」と命じられた気がいたします。

東京は池袋生まれの橋は、成長するにつれて「喧嘩に強くならないと、この町じゃ生きていけない!」とけっこう本気で思い込んだようなことを、生前の彼は語っていましたが、小学高学年から空手と柔道を習ったそうです。これが良かったか悪かったか、中学に入ると空手仲間の「ちょっとグレた友達」と親しくなり、他校の連中との果たし合いに加勢させられたり、様々な喧嘩に巻き込まれたり……。本人いわく「こちらから手を出したことは一度も無いけれど、売られた喧嘩は買うタイプでね(笑)。気がつけば僕も、いっぱしの不良グループの一員に見られてしまったんだね」

それを心配した橋の母親は、自分が若い頃から芸事が大好きだったこともあり、「僕を悪い仲間から引き離すため、歌を習わせようと画策したんです。自宅の隣にあった理髪店の客に歌手の藤島桓夫さんがいて、そのつてで母は、作曲家の遠藤実先生が指導する歌謡教室に僕を通わせたんですね」

中学3年に上がる直前だったそうですが、そもそも橋は歌など興味がなかった。でもいざ歌ってみると「声が良い」し「音感も良い」んですね。遠藤実もその事実に気づき、「コイツを流行歌手としてデビューさせたい!」との思いが募り、他の生徒を置いてやたら橋に入れ込みます。そうなると本人も満更じゃなくなりまして、母親の目論見通り、不良連中との喧嘩よりも歌のレッスンに熱を入れ始めた、……んだそうな。

高校へ進学した頃に、いよいよプロデビューする話が本決まりになります。当時、遠藤が作曲家として所属していたレコード会社は日本コロムビアですので、当然【ここ】からデビューさせる運びになるはずでした。ところが、様々な「業界の事情」が絡み合って、話が先へ進まなくなってしまった。

それでも遠藤は、橋の歌手としての才能を相当高く評価してますので、別のレコード会社でも、「とにかくコイツを歌手にさせたい!」……。その話を作曲家仲間の吉田正が聽き、「だったら僕が引き受けましょう!」と。

晴れて橋幸夫は昭和35年=1960年7月5日、吉田が所属している日本ビクターから「潮来笠(いたこがさ)」でデビューします。

(※こちらが7年前の動画です)

♪~潮来の伊太郎 ちょっと見なれば
薄情そうな 渡り鳥
それでいいのさ あの移り気な
風が吹くまま 西東
なのにヨー なぜに眼に浮く潮来笠

田笠の紅緒が ちらつくようじゃ
振り分け荷物 重かろに
わけは聞くなと 笑ってみせる
粋な単衣の 腕まくり
なのにヨー 後髪引く 潮来笠

旅空夜空で いまさら知った
女の胸の 底の底
ここは関宿 大利根川へ
人にかくして 流す花
だってヨー あの娘に川下 潮来笠~♪

歌詞を書いた佐伯孝夫は、とりわけこの作品に対する思い入れが強く、「伊太郎にふさわしい歌い手が出て来るまでは、この歌詞は売りません」と、けっこうな年月、書斎の机の引き出しの奥へしまっておいたんだそうな。

「潮来笠」は、昭和歌謡全盛期に数多く制作された股旅ソングというジャンルの1曲で、酒と博打と喧嘩で身を持ち崩し、世間に背を向けた渡世人(ヤクザ者)が、三度笠をかぶって西東。気が向きゃあ、その土地に長逗留。向かなきゃほんの数晩でどこかへ消える。……気ままな生活の風来坊が主人公でありまして、そういう生き方に憧れる殿方は、昔も今も結構な数おりましょう。

でも実際には、真似をしてみる勇気も覚悟もない。今日も今日とて馴染みの酒場で、安酒を威勢よく呷っては、「俺もよ、若い頃はよ、この歌の野郎みてぇ~に、ちょいとばかし鳴らしたクチだぜ」なぞと、100%有りもしない悲しい妄想にふける……。田端義夫の「大利根月夜」や小畑実の「勘太郎月夜唄」、三波春夫の「大利根無情」など、その時代その時代に大ヒットした股旅ソングを耳にしては、鼻歌まじりに口ずさむ。

「潮来笠」もそんな御仁に愛されて、あっという間に120万枚の大ヒットを飛ばしました。同時に橋幸夫は、デビュー曲にして一気にスター歌手の仲間入りを果たしたのです。

この曲が発売された昭和35年という時代は、まさに高度経済成長の真っ只中。敗戦後まもなくに生まれた、いわゆる「戦争を知らない」子どもたちは、団塊世代といわれるほどベラボウに数が多くて、……ですね。高校はもちろん大学への進学率も急上昇しまして、「どうせなら大都会TOKYOの大学に通いたい!」との望みも高く、全国各地の田舎から大挙して若者が上京しました。

吉田正は、ムード歌謡が下火になったのを潮目にして、「お次」の戦略として、そんな若者に向けた「青春歌謡」を書きまくります。歌い手は当然、現役の若者じゃなくては説得力がない。……となると、「潮来笠」で名を馳せた橋幸夫と、すでに映画会社日活の専属女優として活躍していた吉永小百合の2人に、デュエットをさせる形で「いつでも夢を」(昭和37年=1962年9月20日発売/作詞:佐伯孝夫)を発売します。たちまち若者を中心に話題になり、レコード発売枚数が300万枚を超える大ヒット。のちに昭和を代表する流行歌として、カラオケソングの定番にもなりました。

♪~星よりひそかに 雨よりやさしく
あの娘はいつも歌ってる
声がきこえる 淋しい胸に
涙に濡れたこの胸に
言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を
星よりひそかに 雨よりやさしく
あの娘はいつも歌ってる

歩いて歩いて 悲しい夜更けも
あの娘の声は流れくる
すすり泣いてる この顔上げて
きいてる歌の懐しさ
言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を
歩いて歩いて 悲しい夜更けも
あの娘の声は流れくる

言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を
はかない涙を うれしい涙に
あの娘はかえる歌声で~♪

もう1曲、同じ吉永小百合とのデュエットで「若い東京の空の下」(昭和38年=1963年4月20日発売/作詞:佐伯孝夫)も発売します。これも、「いつでも夢を」ほどではないですが、すかさずヒットします。そしてお決まりの流れで、同名の映画も公開されました。

♪~山の手も下町も 下町も山の手も
東京 楽しや 楽しや東京
朝日がさせば あの娘のように
花の笑顔で コンニチワ
春は芽ぐむ お濠の柳
恋は芽ぐむ 若い胸に
東京 楽しや 楽しや東京

山の手も下町も 下町も山の手も
東京 やさしや やさしや東京
かわいや鴎 港に川に
てんで明るい アクセサリー
ビルの窓を 夕日が染めりゃ
足は急ぐ 恋に燃えて
東京 やさしや やさしや東京

山の手も下町も 下町も山の手も
東京 いとしや いとしや東京
なじみの街よ 夜霧に更けて
下(くだ)るメトロの 階段よ
瞳交わし ささやく言葉
それはいつも「明日またネ」
東京 いとしや いとしや東京
いとしや東京~♪

この曲の前奏、ワタクシ好きなんですよ~。冒頭、明るく朗らかな長調のメロディで聴く者の耳を馴染ませておいて、ほどなく淋しげな短調のメロディに転じて「ンン?」と感じさせる。すると自然に「その先」のメロディへの関心が湧いて、気がつきゃ思わずこの歌を口ずさんでいる。そして「もう一度聽きたい!」ってな心持ちになり、レコードを買い求めたくなる……。

吉田先生が得意とする作曲手法でありまして、出世作の「異国の丘」しかり、フランク永井が歌う「西銀座駅前」しかり、前奏の、出だしの音からググ~ンと気持ちを持って行かれるのです。

 

ただですね、この曲、ひょっとして? 私と同じ感想を持たれる方もおられるんじゃないかな。えーとですねぇ、結構ノリノリに歌っている吉永に対して、橋はどこか投げやりというか、気持ちが入ってないというか、……決して楽しく歌ってないような? そんな印象を受けるのですよ。

あくまで私の勝手な推測ですが、個人的な好き嫌い、いや苦手というべきかな、橋は本音をいえば、デビュー曲の「潮来笠」のような、男っぽい硬派な世界に惹かれるタイプで、「青春歌謡」の歌詞にありがちな、若い男女の夢だの愛だの恋だののチーチーパッパには興味がないんじゃなかろうか?

背景にそんなこともあったからか? 当時、日本ビクター専属の新人歌手の中に1人、紅顔の美少年がおりましてね。歳は橋より4つ下、デビューは3年遅れて……の三田明です。彼のイケメンぶりは、作家の三島由紀夫をも翻弄しちまったようで。あちこちで三田明の大ファンを公言しまくり、あまつさえ雑誌のインタビューに答えて、「私は昭和天皇にはエロティシズムを感じないし、あんな老人のために死ぬわけにはいかない。しかし三田明が天皇だったら、いつでも死ぬ」とまで言い切った。この発言、当時の宮内庁はどう反応したのでしょう? 言われた三田の方も、天皇との比較でエロスがどうのこうの。素直に喜べやしなかったでしょうが。

それはともかく……、吉田は三田のデビュー曲として「美しい十代」(昭和38年10月10日発売/作詞:宮川哲夫)を書きました。

(※10年以上前の動画のようです)

♪~白い野ばらを 捧げる僕に
君の瞳が あかるく笑う
いつもこころに 二人の胸に
夢を飾ろう きれいな夢を
美しい十代 あゝ十代
抱いて生きよう 幸福の花

昨日習った ノートを君に
貸してあげよう やさしい君に
つらい日もある 泣きたいことも
あるさそれでも 励ましあって
美しい十代 あゝ十代
抱いて咲かそう 幸福の花

遅くなるから さよならしよう
話しあったら つきない二人
「明日またね」と手を振りあえば
丘の木立に 夕陽が紅い
美しい十代 あゝ十代
抱いて生きよう 幸福の花~♪

私ね、この歌をたまにカラオケで唄うんです。半世紀前の記憶を追いかけながら、「何一つ美しいことなんてなかったな!」なぞと胸の内で愚痴りつつ。

今回、改めて歌詞を眺め渡しましてね、嗚呼……こりゃもう「あはは」と笑うしかないくらいに、若い男女のチーチーパッパが満載な歌詞ですね。これを橋幸夫が歌ったら? と想像してみても、まったくイメージが浮かびません。

というわけで橋幸夫は、吉田が書いた「青春歌謡」には残念ながらフィットしませんでしたけれど、漁夫の利といいますか(喩えが違うか?)、本質的にはゲイだったはずの三島も惚れた三田明の方は、「美しい十代」の大ヒットとともに、このジャンルの貴公子のごとく数々の曲を歌いまくり、スター歌手に成長します。

他のレコード会社も、日本コロムビアの舟木一夫は「高校三年生」に「修学旅行」に「学園広場」、クラウンレコードの西郷輝彦は「君だけを」に「十七歳のこの胸に」……それぞれ大ヒットを飛ばしたことで、一躍「青春歌謡」のブームになり、マスメディアはレコード会社を超えて「青春御三家」のネーミングで売りまくるのですが、メンツは舟木一夫と西郷輝彦ともう1人、……えー、三田明じゃないんだ??? 先輩格の橋幸夫でした。この事実について後年、三田はTVの歌謡番組の中で、苦笑交じりに「そりゃ当時は落ち込みましたよ。なんで僕じゃないの?って」と、本音を語っていましたが。

三田明はたしかにイケメンではありますが、レコードの売上的には圧倒的に橋幸夫に軍配が上がりましたので、まぁ無理もない。要するに「青春歌謡」とは、肌合いがしっくり来なかっただけのことでしょう。その証拠に、吉田正が同時期にもう1つ仕掛けた「リズム歌謡」戦略には見事にハマります。

この話は、さすがに長くなり過ぎましたので、次回にまた。

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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