橋幸夫 其の弐
昭和歌謡_其の131
作曲家・吉田正の世界(「リズム歌謡」編)
歌謡曲全盛時代のスター 橋幸夫を偲んで(その2)
「恋をするなら」
「チェッ・チェッ・チェッ─涙にさよならを」
「恋のメキシカン・ロック」「霧氷」
「シンガポールの夜は更けて」
all by 橋幸夫
実はアイドル出身
前回の続きになります。デビュー曲「潮来笠」の大ヒットを始め、似たような股旅ソングの小ヒット、そして日活映画の人気女優の吉永小百合とデュエット「いつでも夢を」の超大ヒットなどの活躍により、私が生まれた昭和37年=1962年ごろには橋幸夫は、紛れもなく歌謡界のイケメン貴公子の大スター!でした。
そして、他のレコード会社のイケメン貴公子の舟木一夫、西郷輝彦とともに『青春御三家』なるトリオを組まされ、お互い本音じゃ仲が良いんだか悪いんだか(笑)、知りませんけれど、様々なマスメディアを通じて、あくまで男性アイドルとして派手に売り出されました。
令和の感覚じゃにわかには信じがたい事実でしょうけれど、そうです、橋幸夫はれっきとしたアイドル出身なのです。あ、橋に数年遅れてデビューした、三島由紀夫が惚れるほどのイケメン貴公子、三田明のアイドル人気は、今時の歌って踊るナントカって各種イケメングループたちより、遥かに凄かったようですよ~。御三家に三田も加えて『青春四天王』ってなネーミングも流行りました。
ただね……、橋は確かにイケメンではありますが、前回のコラムでも書いた通り、通り一遍のベタな青春ソングは向かなかった。何故かしら? と首を傾げた私の、しょせん勝手な「答え」ですが、3人、いや4人の中で、橋だけやけに眼光がキツイというか、目付きが鋭すぎるように感じます。あの印象じゃ、お育ちの良い優等生のお坊ちゃんお嬢ちゃんが喜ぶような、背筋がモゾモゾ来る歌詞の青春ソングは似合いませんよね。
恩師である吉田正が作曲した青春ソングは、どうにも居心地が悪かった橋に向けて、吉田は新規のジャンルである「リズム歌謡」の作品を用意しました。
。
その1発目が、昭和39年=1964年8月5日発売の「恋をするなら」(作詞:佐伯孝夫)です。
♪~焔のように 燃えようよ
恋をするなら 愛するならば
夜はバラ色 夜明けもバラ色
今日も明日も 明後日も
AAA III EEO AIO
焔のように 燃えようよ
恋をするなら 愛するならば
世の中なんて 忘れよう
恋をするなら 愛するならば
男ごころも 女のこころも
とけて一つに なっちまう
AAA III EEO AIO
焔のように 燃えようよ
恋をするなら 愛するならば
チャームになるさ ハンサムに
恋をするなら 愛するならば
恋のマッチを 二人ですろうよ
すれば火がつく 紅い火が
AAA III EEO AIO
焔のように 燃えようよ
恋をするなら 愛するならば…~♪
いま改めて歌詞を眺めると、背筋がムズムズ来ることはないけれど、あまりに薄っぺらい恋愛ゴッコ的歌詞に笑っちゃいます。 ♪~チャームになるさ ハンサムに~♪ だなんて、よくもまぁ、こんなバカバカしい言葉を! 酒でも呑まなきゃまともに口に出来ないでしょ~。吹き出さずにはいられません。
でも、実はそこが、吉田をメインにするこの曲の制作陣の狙いでもありまして。常連コンビの佐伯孝夫が書いた歌詞なんざ、正直どうでも良いのです、ノリさえ良けりゃ。音符に言葉さえ載ってりゃ。なんなら「いろはにほへと」でも「あいうえお」でも構わない。……あら、マジに ♪~AAA III EEO AIO~♪ だわ(笑)。
「恋をするなら」を皮切りに、吉田は、多分に確信犯的に「歌詞は言葉遊びのレベルで良し」、でも「リズム感はまさに〝ノリノリ〟」、「メロディは抑揚たっぷり」……てな曲を書きまくった! それが「リズム歌謡」です。
橋幸夫は、この新ジャンルの音楽を流行らせるのにドンピシャリ。決して優等生じゃないけれど、いわゆる地頭が良いタイプで、歌謡曲の歌い手のみならずプロデューサー的な才覚があるのです。40歳の頃に、佐川急便が出資するリバスター音産というレコード会社の副社長になったり、亡くなるまで所属した、通販で有名な名物社長率いる「夢グループ」でも、社長と二人三脚で各種メディアへの橋幸夫の売り込みはもちろん、他の昭和歌謡のスター歌手を招き入れて様々なコンサートも企画して来ました。
そんな「橋だからこそ」なのでしょう。吉田先生の意図を十二分に理解し、歌詞のバカバカしさをむしろ楽しむように、リズムに合わせて体を揺すって熱唱したのです。
(10数年前の動画です)
おかげでこの曲は超が付く大ヒット! レコードも100万枚以上売れまくりましたし、オコチャマを含めて若い世代をメインに、♪~ああああ~ いいいい~~♪ は流行語にもなりました。
吉田と佐伯の2人は、高度経済成長の大波に乗りまくっている昭和30年代なかば、具体的には昭和36年にイギリスとフランスとイタリア、37年にアメリカ、……音楽シーンの視察と観光を兼ねて現地を巡ります。人気だった「青春歌謡」路線も下火になり、心機一転、ポップスミュージックの本場に新たなヒットソング創作のヒント、アイデアを求めたのでしょう。
ちょうどアメリカでは、1959年デビューのザ・ベンチャーズ、1961年デビューのザ・ビーチ・ボーイズなど、エレキギターを景気良く ♪~テケテケテケ……~♪ と掻き鳴らすサーフ・ロック(サーフミュージック・ロック)という新ジャンルの音楽が大流行していましてね。大人はもちろん、広場で遊ぶ小さな子供たちまでが ♪~テケテケテケ……~♪ を口真似しているのを間近に眺め、吉田は即座に「これは日本でも絶対に流行る!」と感じたんだそうで。
帰国後の吉田は、耳の奥に濃厚に絡み付いた、本場のサーフ・ロックのサウンドを〝そのまま〟、橋幸夫の新曲に取り入れたのです。名付けて「リズム歌謡」……その第1弾が「恋をするなら」であり、第2弾はスルーして、第3弾が、次に紹介する「チェッ・チェッ・チェッ─涙にさよならを」(1964年=昭和39年11月20日発売/作詞:佐伯孝夫)です。これらの曲の斬新さ、ユニークさが評価されて、翌年(昭和40年)、日本レコード大賞の企画賞に輝きました。
♪~忘れちゃいなと 風が吹く
あきらめちゃいなと 雪が降る
さっきチラッと 見かけたあの娘
夜更けの外車に 乗っていた
ソッポ向いてた チェッ チェッ チェッ
街は沈んだ 青い色
恋は死んだと 唄ってる
街のギターが 唄ってる
俺のこころが チクチク痛む
いっちゃえ あんな娘どこへでも
ピンクサーモン チェッ チェッ チェッ
ばかにパリッと していたぜ
忘れられぬと 風が吹く
あきらめきれぬと 雪が降る
淋しく見つめる この掌に
かなしく降る降る 消えてゆく
雪のはかなさ チェッ チェッ チェッ
ヤケに涙が 流れくる~♪
この歌詞は、「恋をするなら」の♪~AAA III EEO AIO~♪よりは、まともな日本語でしょ(笑)。「1番」では、「◯◯しちゃいな」という、当時の湘南あたりの若者が使っていた流行り口調をタイムリーに取り入れ、一転「2番」では、「恋は死んだと 唄ってる」「街のギターが 唄ってる」なぞと詩的情緒を含ませて聴く者の心理を「ン!?」と揺らがせる……。ニクイ演出じゃないですか。
とどめはサビの直後の、チェッ チェッ チェですよ。最初の【チェッ】には音符が付いてますが、続く2つの【チェッ】は音符無し、橋自身の舌打ちです。失恋しちまった若い男の憤懣やる方なき胸内が、いかにもリアルに伝わって来るようで。いやぁ、この曲はいま聴いてもなかなかの味わいです。
メキシカン・ロック ゴーゴー
さて、ついでにもう1曲、行きましょうか。吉田と佐伯コンビで売り出した「リズム歌謡」の第6弾、昭和42年=1967年5月1日発売の「恋のメキシカンロック」です。
この曲は、橋の逝去後の追悼番組で、生前の映像としてかならず流されましたね。レコードが85万枚も売れましたから、さして歌謡曲に興味がない皆さんも、冒頭のメロディぐらいは「あー、知ってる!」だったんじゃないですかね。
♪~メキシカン・ロック ゴーゴーゴーゴー
メキシカン・ルック ゴーゴーゴーゴー
ぎらら まぶしい太陽
肌にやけつく 太陽
真昼の海で 出逢った二人
君の瞳は サパタブラック
君の唇 マタドールレッド
なんて素敵な セニョリータ
信じられない セニョリータ
も一度言って 好きだと言って
メキシカン・ロック ゴーゴーゴーゴー
メキシカン・ルック ゴーゴーゴーゴー
恋の酒なら テキーラ
ラテン・ロックで 踊ろう
指先からでも 心はかよう
僕の気持ちは メキシカン・パッション
君のスタイル メキシカン・ファッション
みんなみてるぜ 君を
しびれちゃったよ 僕も
パンチのきいた ロックとルック
メキシカン・ロック ゴーゴーゴーゴー
メキシカン・ルック ゴーゴーゴーゴー
君はたのしい 太陽娘
君は陽気な イエローダリヤ
今夜はじめて マニャーナ
言ってみたんだ マニャーナ
別れの言葉も いかしているぜ
メキシカン・ロック ゴーゴーゴーゴー
メキシカン・ルック ゴーゴーゴーゴー
メキシカン・ロック ゴーゴーゴーゴー
メキシカン・ルック ゴーゴーゴーゴー~♪
この曲が制作された背景は、翌年の昭和43年にメキシコで開催されるオリンピックです。それに伴って、銀座や新宿のデパートの催し物コーナーなどでも「メキシコ物産展」が開かれ、日本中でにわかに沸き立つメキシコブームに便乗したわけですね。
橋が唄う「リズム歌謡」の、これがラストソングです。「リズム歌謡」の大ヒットによって、洋楽のエレキサウンドに惹かれる若者がめちゃめちゃ増えた。加えて、ジュリーこと沢田研二が所属する「ザ・タイガース」、ショーケンこと萩原健一が所属する「ザ・テンプターズ」など、自分たちでエレキギターを演奏して歌うバンドが数多くデビューし、若い女性たちの間で大ブームとなった。……この流れを汲んで吉田は、「(GSバンドの若者たちが)自分たちのオリジナル作品を携えて登場してきたのを見て、もう(リズム歌謡は)やめよう」と決めたんだそうで。
橋も後年、何かのインタビューで「リズム歌謡」について訊かれた際に、「続けようと思えば続けられたかもしれないが、あえてやめた。やはり、ちょっと(世の中の)ブームが違って来たんだね」と語っています。
同時に全部で6曲ある「リズム歌謡」のうち、どの曲が一番好きかと訊かれ、橋はすぐに「恋のメキシカンロック」を挙げました。理由は、「細かいリズムを刻むパーカッションとブラスセクションの絡みが実にいい」からだそうで。
(わりと現在に近い動画です)
吉田は、橋に「リズム歌謡」の曲を書きながら、合間に〝そうでない〟曲、いや、ある意味で真逆……、歌詞の世界観をじっくり噛みしめるような曲も〝ちゃんと〟提供しています。その1つが、橋が2度目のレコード大賞に輝いた「霧氷」(昭和41年=1966年10月5日発売)です。
吉田が得意とする「ムード歌謡」の香りをふんだんに沁み込ませたメロディラインと、切ない男女の恋模様を描いた歌詞とのジャストフィット! さすがは佐伯孝夫センセイ、西條八十の弟子で早稲田の仏文科出身の〝詩人〟の本領発揮といいましょうかね。♪~AAA III EEO AIO~♪ を書いてお茶を濁すだけの御仁じゃありません。タイトルの「霧氷」からして、昭和歌謡の名曲中の名曲だと私は感じます。
♪~霧氷…… 霧氷…… 思い出は かえらない
遥かな 遥かな 冬空に 消えた恋
霧の街角で 告げたさよならが
僕を 僕を 僕を泣かす
霧氷…… 霧氷…… なにもかも 夢だった
今でも 今でも 愛しては いるけれど
どこにいるさえ 今は知らぬ人
僕を 僕を 僕を泣かす
霧氷…… 霧氷…… 美しい 恋だった
消えない 消えない 悲しみを 胸にだき
霧の街角を 一人今日もゆく
僕を 僕を 僕を泣かす~♪
今回はここで終わりにしても良いのですが、もう1曲、どうしても紹介したい曲があります。「霧氷」がレコード大賞に決まった直後、昭和41年12月10日に発売された「シンガポールの夜は更けて」です。この年の4月26日に、日本とシンガポールとの国交が樹立されたことを記念して制作された曲です。
橋幸夫が生前に発売したシングルレコードは184枚ありますが、その中で私が勝手にベスト3を決めるとすれば、即座にこの曲が入ります。吉田が書いたメロディがね、実にロマンチックなコード進行でして、いかにも昭和時代の歌謡曲を聴いている気がして来るのです。
それにしても橋さん、彼岸への旅立ちが早過ぎますよねぇ。中等度のアルツハイマー型認知症と診断されて、半年しか経ってないというのに。死因の誤嚥性肺炎は怖いですねぇ。令和4年の死者数は5万6千人以上で死因の第6位。75歳以上の高齢者の7割以上が、誤嚥性肺炎で亡くなっています。以下「シンガポールの夜は更けて」の歌詞を載せて、追悼特集を終えましょう。合掌。
♪~南十字は 燃えたとて
誰にいまさら 恋ごころ
消えた瞳に 似た星を
ナイトクラブの 窓に見る
ああシンガポール シンガポール
星の港の夜は 更けゆく
恋は短し 星あかり
泣くにゃ明るい シーサイド
ひとりさまよう エトランゼ
胸のこの傷 いつなおる
ああシンガポール シンガポール
星の港の夜は 更けゆく
逢えるその日は いつのこと
ああシンガポール シンガポール
星の港の夜は 更けゆく~♪
![]()
勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

古典落語と昭和歌謡を愛し、月イチで『昭和歌謡を愛する会』を主催する文筆家。官能作家【花園乱】として著書多数。現在、某学習塾で文章指導の講師。



























































































































































