林 伊佐緒

昭和歌謡_其の126
「昭和時代、一番流行った歌謡曲は軍歌です!」その1
『出征兵士を送る歌』『ダンスパーティーの夜』
『高原の宿』『長崎の女』
by 林伊佐緒
愛と勇気だけが友達さ
今年、令和7年は、昭和に直すとジャスト100年になる! という事実を、どのくらいの方がご存知ですかね? ン? そんなの常識。逆に知らねぇヤツなんて、いるのかよ? とのツッコミも、どこかから聴こえてきそうですが。
長年、月イチで「昭和歌謡を愛する会」を開いていた私が、記念すべき昭和100年に、真っ先に何を想ったか? といいますと……。
昭和昭和とおっしゃいますが、現代人からみりゃ、それは戦後昭和のことでしょうし、歌謡曲も昭和20年8月15日、太平洋戦争の敗戦以降に流行った曲、ってことになります。この考えに私も賛同しますし、実際に私の「会」でも、手を変え品を変えて96回ほど続いた様々な歌謡曲のテーマは、すべて昭和20年後半以降の歌謡曲でした。
昭和歌謡の別称は流行歌です。それが証拠に、私が子供の頃に活躍していた、特に演歌系のスター歌手は、たとえばサブちゃんこと北島三郎も、チータこと水前寺清子も、テレビ番組の自己紹介などでは誰にはばかることなく、「流行歌手の◯◯です」と胸を張っていたものです。
歌謡曲が「大ヒットさせて世の中に流行を生む!」ことを目的とした芸能だとすれば、そしてその流行が、子供も大人もジジババも、日本人の老若男女のほとんどが口ずさむ現象を指すのだとすれば、60数年もの長きにわたって続いた昭和の時代において、最も「流行を生む!」に成功した歌謡曲は、……実は演歌でもポップスでもGS(グループサウンズ)でもアイドルソングでもなく、戦時中に発売された軍事歌謡=軍歌なんじゃね? というのが、あくまで私の勝手な結論です。
戦時中、政府(軍部)の国威発揚、および国民の戦意高揚【だけ】を目的にして、すべてのレコード会社に制作が命じられた歌謡曲、……それが軍歌でありまして、データを調べだすと嫌になるほど膨大な数のレコードが発売されました。なのに私は、合計96回も行った会で、たったの一度も軍歌を〝ちゃんと〟扱わなかったなぁと後悔したのです。
理由は何でしょう? おぼろげな記憶をたどれば、会場として使わせてもらっていた、赤坂にある会員制スナックのママに「そういうのは止めて頂戴」と制されたから、……じゃなかったかしら。
ちょうど今、アンパンマンという超人気漫画を描いた、やなせたかしがモデルのドラマ「あんぱん」が、毎朝NHKで放映されていますが、5月19日に流れた映像は、昭和14年の半ばの日本です。やなせがモデルの主人公の嵩(たかし)は、東京の画学校の2年生で卒業制作の作品に取り組んでいる。一方、のちに彼の女房になる「のぶ」は、女子師範学校を卒業し、生まれ故郷の高知で、尋常小学校の教師をしています。
昭和16年に始まった太平洋戦争は、昭和20年8月15日、日本の完膚なきまでの敗戦という形で終結しますが、……でも日本全国の空気がドドドと軍事色に染まりだすのは、実はもっと以前、昭和6年9月18日に始まる満州事変からなんですね。
昭和7年10月には、戦地へ赴いた兵隊さんの「ご無事を祈って銃後を支える」目的で、全国的に大日本国防婦人会が組織されましたし、昭和12年7月7日に支那事変が勃発。翌13年5月5日に国家総動員法が施行。さらに昭和15年には国民統制を目的にする隣組も組織されます。
そんな中、朝ドラ「あんぱん」で描かれる巷の空気は、……都内在住の嵩がうろつく銀座界隈には、支那事変の「し」の字もないのに、高知では国防婦人会が、銃後の護りに徹するために女が出来ることは「なるべく早く結婚し、出来るだけ多くの子供を産めよ! 増やせよ!」と、令和の今なら一発でアウトな妄言とともに、「のぶ」に分厚い見合い写真の束を押し付けます。
この東京と高知の、あまりにも大きな民衆の意識の違いに、私は冗談抜きにたまげまくっています。銀座の飲み屋では、酔客が陽気に大声で歌を唄っている。片や高知じゃ、肩から「国防は台所から」なるスローガンを記した「たすき」を下げた、国防婦人会のオバハンどもが、いかにも誇らしげに胸を張って巷を堂々と闊歩する……。
いざ征け つわもの 日本男児
そんな世相の中、昭和14年10月に発売されたのが『出征兵士を送る歌』という、100%戦意高揚が目的の軍歌。たちまち全国的に大流行します。曲の紹介の前に、歌詞をご覧ください。
♪~わが大君に 召されたる
生命光栄(みえ)ある 朝ぼらけ
讃えて送る 一億の
歓呼は高く 天を衝く
いざ征(ゆ)け つわもの
日本男児!
華と咲く身の 感激を
戎衣(じゅうい)の胸に 引き緊めて
正義の軍(いくさ)征くところ
たれか阻(はば)まん その歩武(ほぶ)を
いざ征け つわもの
日本男児!
かがやく御旗(みはた)先立て
越ゆる勝利の 幾山河
無敵日本の 武勲(いさおし)を
世界に示す ときぞ今
いざ征け つわもの
日本男児!
守る銃後に 憂なし
大和魂 ゆるぎなき
國のかために 人の和に
大磐石(だいばんじゃく)の この備え
いざ征け つわもの
日本男児!
ああ万世の 大君に
水漬(みず)き草むす 忠烈の
誓致さん 秋至(ときいた)る
勇ましいかな この首途(かどで)
いざ征け つわもの
日本男児!
父祖の血汐に 色映ゆる
国の誉れの 日の丸を
世紀の空に 燦然と
揚げて築けや 新亞細亞
いざ征け つわもの
日本男児!~♪
いやぁ、鳥肌が立つほど言葉の圧が強くないですか。いきなり【わが大君】つまり「天皇陛下バンザ~イ!」とばかりに、気持ちが【召され】ちゃうんですよ。そして【一億の】日本国民に【讃えて送】られて、その【歓呼(喜びの声)は高く】轟いて、まさに【天を衝く】ほどだそうで(^_^;)。
ちなみに当時の国民の数は、せいぜい7500万人程度だそうですから、一億人は大嘘、詐欺同然な誇大喧伝ですね。ま、それはさておき、こんな空気の只中に置かれて、【いざ征(ゆ)け つわもの 日本男児!】と背中を押されりゃあ、そりゃ「不肖◯◯、わが大日本帝国を護るため、若輩ながらわが命を天皇陛下に捧げ、憎っくき支那を撃滅して参ります!」ぐらいの心持ちになりますわねぇ、……嗚呼オソロシイ。
昭和歌謡の歌詞は、おおよそ五七調、七五調が定番ではありますけれど、漢語を多用されると、たとえ意味不明でも字面から湧き上がるイメージに、意識が勝手に暴走しちゃうような、……そんな印象を受けます。
♪~水漬(みず)き草むす 忠烈の 誓致さん 秋至(ときいた)る~♪ の意味は、ネットの解説によると【海に行けば水に漬(つか)りし屍(しかばね)あり、山に行けば草が生えた屍あり。我々は天皇のもとで死んで行く。いざその誓いを果たすべき時が来た】……だそうです。
繰り返しますが、まだトラトラトラの太平洋戦争が始まる前ですよ~。にもかかわらず、すでに日本は、いや、あえていうと都会じゃない全国各所の空気は、すっかり戦闘モード一色! 日本男児は「お国を護る兵隊さん」に、うら若き大和撫子は、兵隊さんの促成栽培に尽力すべく「子供を産めよ増やせよ」……と。
ここで『出征兵士を送る歌』を聴いてもらいましょう。
まずは軽快な行進曲(二拍子)のリズム。そして聴くだに口ずさみたくなる、実に耳に心地よい短調(マイナー)なメロディ。どうです、思わず拳を握りしめて上下に振りたくなりませんか?
そして歌声が、また素敵! 高音域がスコーンと一気に、まさに【天を撞く】がごとく伸びる見事なテノールの美声。いかにも朗々たる熱唱です。
声の主は林伊佐緒。昭和歌謡史に残る男性スター歌手のなかで、とびっきりイケメン&長身で知られ、おまけに彼は作曲も手掛けるので、日本初のシンガーソングライターとも称されます。
レコード売上げ的には、昭和25年10月発売の『ダンスパーティーの夜』(作詞:和田隆夫)と昭和30年4月発売の『高原の宿』(作詞:高橋掬太郎)がダントツでしょうが、春日八郎の大ヒット曲『長崎の女(ひと)』(作詞:たなかゆきを)は、彼が作曲を手掛けて自分でもカバーしています。
『ダンスパーティーの夜』
♪~赤いドレスが よくにあう
君と初めて 逢(あ)ったのは
ダンスパーティーの 夜だった
踊りつかれて ふたりで
ビルのテラスに 出てみたら
星がきれいな 夜だった~♪
『高原の宿』
♪~都思えば 日暮れの星も
胸にしみるよ 眼にしみる
ああ 高原の 旅に来て
ひとりしみじみ
ひとりしみじみ 君呼ぶ心~♪
『長崎の女』
♪~恋の涙か 蘇鉄(そてつ)の花が
風にこぼれる 石畳
うわさにすがり ただひとり
尋ねあぐんだ 港町
ああ 長崎の 長崎の女(ひと)~♪
そんな……彼が、戦意高揚の象徴ともいうべき『出征兵士を送る歌』を唄った。このこと自体、私はさして驚きもないです。当時のスター歌手は、藤山一郎も東海林太郎も霧島昇も、軍部の命令に従って、個人の意志に関係なく軍歌を唄わされましたから。林伊佐緒も、まぁ浮世のしがらみで、これを【唄わされた】と考えりゃ、時代の空気として仕方なかったでしょう。
ところがね、迂闊な私……、ハズカシナガラ、今の今まで知らなかったのです。この曲、林がみずから作曲していた! という事実を。
ネット情報を集めると、こうなります。
「支那事変勃発以来、政府(陸軍省)の命令により大手のマスコミ各社は、積極的に軍歌の歌詞、メロディを一般公募した。当初は新聞社だけだったが、出版社で初めて公募を始めたのが大日本雄辯會講談社(現在の講談社)であり、全国から12万8592通もの応募があった。歌詞の1等当選は神戸市在住の一読者(つまり素人)、生田大三郎で、曲の1等当選は林伊佐緒の『出征兵士を送る歌』。彼はすでに講談社の傘下、キングレコード専属のプロ歌手。賞金を1500円獲得」
つまりね、林はこの曲を嫌々唄ったわけじゃないのです。みずから戦意高揚を狙ったメロディを書き、1等賞金をGETした上で「唄いたくて」唄っていたのです。
私ね、これを知って愕然としました。同時に私は性格が単純ゆえ、猛烈に腹が立ちました。いかに大勢の青年たちが、この歌に煽られて戦地に赴いたか? そのうちどれだけの数が、戦地で殺されたか? 林自身、その事実とちゃんと向き合ったことがあるのかしら?
下の映像をご覧下さい。林は1995年(平成7年)に83歳で亡くなりましたが、この時の年齢は幾つでしょうか?
懸賞公募の1等に選ばれたことを、いかにも誇らしげに語っているでしょ。そしてビールをぶっ掛けたくなるほど脳天気に、満面の笑みで熱唱しているでしょ。
彼の本音は、当時を生きた彼にしかわからんのでしょうが、この事実を知ってからの私は、手前勝手に林伊佐緒をA級戦犯に処し、カラオケの十八番だった『ダンスパーティーの夜』も封印しました。
次回も引き続きこのテーマで書かせてもらいますが、林同様、A級戦犯クラスの作詞家、作曲家をご紹介します。
勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

古典落語と昭和歌謡を愛し、月イチで『昭和歌謡を愛する会』を主催する文筆家。官能作家【花園乱】として著書多数。現在、某学習塾で文章指導の講師。