都はるみ

昭和歌謡_其の124
コンプラ無き時代のインモラル(ふしだら)な女/後編
夜の東京ど真ん中
前回の「続き」ということで……、
昨夜「逢って飯喰って酒呑んでヤッて別れた」男と、今宵「逢って飯喰って酒呑んでヤッて別れた」男が違う! という、SEXをプレイ感覚で楽しめるような女が主人公の、昭和時代の歌謡曲をもう1つ、紹介させていただきましょう。」
前回、歌詞の一部だけ載せましたが、以下がフルの歌詞になります。
♪~夜霧が流れる 狸穴(まみあな)あたり
咲く夢 散る花 拾う恋
抱いてください ねえあなた
ほんの少し しあわせにしてよ
銀のピアスを 鏡のまえで
そっとはずせば
夜が泣いてる 夜が泣いてる
東京セレナーデ
夜更けに消えゆく あの窓あかり
しのべばせつない 恋模様
昨夜わかれた あの人と
どこか違う 爪あとがしみる
すてた煙草を ヒールの底で
踏めば砕ける
虹もはかない 虹もはかない
東京セレナーデ
灯影に 濡れゆく 恋人たちよ
変われどつきない 恋の唄
赤く咲いても 白い花
明日は誰と かりそめのルージュ
夜は真珠か ガラスの街は
もらす吐息に
夢もかけあし 夢もかけあし
東京セレナーデ~♪
この曲『東京セレナーデ』(作詞:たかたかし/作曲:小林亜星)が発売されたのが昭和57年=1982年4月1日でして、すぐに〝そこそこ〟ヒットしましたから、商店街の有線放送やラジオから、それなりの頻度で女性歌手、それも超有名な歌手の歌声が耳に飛び込んで来ました。
私はニチゲイの2年生になったばかりでしたかね。当時は空前のディスコブーム! 地下鉄日比谷線「六本木」駅の交差点から、すぐのところにスクエアビルというのがあって、地下2階から地上10階のうち、10フロアがすべてディスコだった……。そんな時代。
2つ年下のカミサンは、東武東上線沿いの大学に通い、最寄りのアパートに女友達と2人で暮らしていたらしいですが、夜な夜な電車を乗り継いで六本木に繰り出し、スクエアビルの「どこか」のディスコで踊りまくり、びっしょり汗をかいて疲れた頃に夜が明ける、という日々を送っていたそうな。
その頃はまったく赤の他人だった私は、ディスコブームとは〝ほぼ〟無縁な毎日で、……でも、ごくごくたま~に、ディスコに行きさえすれば「女と一発ヤレる!」と、冗談抜き、かなり本気でそう信じ込んでいた、モテない童貞クン仲間と一緒に、
六本木のディスコはちょいと敷居が高すぎるので、もっぱら新宿は歌舞伎町、……たしかコマ劇場のトイメンあたりにあったんじゃなかったかしら? NEWYORK NEWYORK(ニューヨークニューヨーク)って店に出入りしていました。
時刻も21時半を過ぎると店の前の階段に、すっかり泥酔して座り込んでいる女、女、女……。彼女たちの多くは、「西武線か東武東上線を使って、埼玉の奥から遊びに来ているイモ(田舎者の隠語)ばっかだ」と、誰が言いふらしたのか? そんな噂が飛んでいましてね。
「アイツらは、今夜泊まれる場所がありゃ、ホテルでもどこでも平気で付いて来るぜ」
その言葉が頭の中でぐるぐる回りつつ、私らもけっこう酔いどれてますから、ふらつく足取りで階段を降りながら女たちの前で立ち止まると、ほぼ全員、しどけなさを通り越して、胸の谷間や超ミニスカートの奥の下着が丸見え! それだけでチェリーボーイの我々は、鼻血が出そうなほど興奮したものです。
顔を1人1人、けっこうガン見して、(えー、この子はそそらない)、(この子はデブ過ぎ)、(この子はペチャパイっぽい)……などと、はなはだ失敬なことを1人勝手に想って、まぁ、要はヘタレですぐキョドっちゃう自分でも、なんとかベッドに連れ込めそうな女を物色するわけですが、軒並み〝擦れっ枯らし〟風な、すでに何人もの野郎どもに「あんな」こと「こんな」ことされまくった、若くして〝使用済み〟感が漂っている……印象の女ばかりでしてね。
そりゃ当然ですよね。いわゆる〝イイとこ〟のお嬢様なら、まず、こんなところで座り込んだりしません。
たまに、(おっ! この子はマブい。僕好みだ)なんて幸運もあったりするわけですが、そんな子に限って、
「なんだよぉ? いちいち立ち止まンな、つぅーの! 軟派なんて百年早ぇ~んだよ、埼玉のイモ!」
そんな台詞を、凄い剣幕で吐き捨てて来るんですね。
正真正銘、ジジ様ババ様から三代続けて東京っ子の私が、埼玉の奥からやって来たはず、……と勝手に思い込んでいる女に、田舎者扱いされるという理不尽さも、このディスコで初体験したわけですが。
こんな出来事が、巷のそこここにごく普通に転がっていた、40数年前の東京……六本木を舞台に、冒頭の『東京セレナーデ』の主人公の女は、ひと夜かぎりの刹那的な刺激、ヒリヒリする欲望に身も心も任せていたのでしょう。
【昨夜わかれたあの人】とは、まるで別の彼氏と今宵の逢瀬で肌を合わせる。2人がイタす行為は同じでも、【どこか違う爪あとがしみ】たりも、する。
そして【明日は】また、きっと別の【誰】かのために、しょせん【かりそめ】に過ぎない【ルージュ(紅)】で唇を彩らす……。
前回のコラムで紹介した、佐良直美の歌のタイトルじゃないですが、♪~いいじゃないの幸せならば~♪ と、はなはだ強がって自分の行いを肯定してみせたものの、夜のネオンの下では【真珠】に見える街並みも、朝日が昇りゃあ、たちまちみすぼらしい【ガラス】細工の模造品にすり替わる、という訳でしょう。
歌詞の冒頭にある「狸穴」って地名が、主人公の女を皮肉ってますよね。
なにしろ「狸」の「穴」ですからね。現在もちゃんと住所表記として「麻布狸穴町」は存在します。飯倉の交差点の近くで、ロシア大使館があるあたりですかね。
昭和34年=1959年にテレビ朝日の前身、NET(日本教育テレビ)が開局されるまで、六本木は華やかさとは無縁の、まったくもって寂れた地域でした。それこそ狸が数匹ひょっこり飛び出して来ても、少しもおかしくないような……。
そんな土地の上に高いビルを建て、それも猫も杓子も建て、いくら見せかけだけ内容を超ゴージャスに彩ったところで、しょせん地金を透かしゃあ、狸の穴! ポンポコ狸に騙くらかされているだけじゃござんせんか? 知らぬはアンタばかりなり! と。まさしく、それがバブル経済の正体だったりしますけれど。
ま、それはさておき『東京セレナーデ』、あくまで私の記憶の中で、ニチゲイに通っていた〝あの〟頃の空気と、実にジャストフィットするのです。
〝その手〟の曲を紡ぎ出すクリエーター
この歌を、いわゆるポップス系の歌手が唄っていたら、おそらくは、さほど惹かれなかったんじゃないですかね。
なんと! 演歌界の超の付くスター歌手、都はるみが85枚目のシングルとして発売した曲だと知って、私はかなり驚きました。大げさでなく、衝撃的な事実といって過言じゃないでしょう。
昭和50年=1975年に『北の宿から』というミリオンヒットを放った時、彼女は我が身にまとわりつく「都はるみは演歌しか歌えないんじゃないか?」というイメージをみずから引き剥がすべく、普段のレコーディングには縁のなかった阿久悠に歌詞を書かせ、同じく演歌とは無縁の小林亜星にメロディを書かせた。
これが大当たりしたことで、都はるみの中の血が騒いだんですね。「演歌にどっぷり浸かっていた私の中に、こんな歌を唄える余地が残されていたんだ!」と。
『北の宿から』のレコーデイングの際に、阿久悠から厳しく戒められたことがあったそうです。それは歌唱する間に「絶対にコブシを回さないこと!」
コブシは、演歌には欠かせない歌唱テクニックで、彼女の初期の大ヒット曲『アンコ椿は恋の花』のサビの部分、
♪~アンコぉ~ぉ~ぉ~~、つばき~はぉ~ぁ~ぁ~♪
この【ぉ~ぉ~ぉ~ぉ~】【ぁ~ぁ~ぁ~】のように、音を微妙に上下に揺らすことです。これを行うと歌詞に描かれる情感を、より強調させることが出来るので、演歌歌手は誰しもごく自然に「やる!」のですが、過ぎると「クサイ」んですね。
妙にリスナーの耳に引っかかって、ともすれば野暮ったく感じられる。『北の宿から』には「それは一切不要だ!」と、阿久悠は都はるみに命じたわけです。
「コブシといえば都はるみ」と音楽業界の関係者も彼女のファンも、そう信じて疑わなかったのに、それを封印させられる……。彼女がのちにテレビのインタビュー番組で苦笑交じりに答えていましたが、「いやぁ、これね、私にはまさに苦行。だって自分でもすでにコブシは癖というか、普通に歌えばコブシが回っちゃうんですよ(笑)。だから1音1音意識して、コブシを回さないように唄ったので、とにかく疲れました」
でもこの体験が、都はるみを大きく変えたのでしょう。歌の世界観がグンと広がって、……7年後、それまでの彼女だったら絶対に歌わない、いや歌えなかっただろう、都会に生きるインモラルな女の日常を描いた『東京セレナーデ』という、ポップス歌謡の名曲に巡り会えたのです。
作曲の小林亜星は、このメロディを書いた当時、作曲家よりも俳優としての方が、全国のお茶の間の老若男女の認知度は高かったですね。有名なドラマでは、向田邦子が脚本を書き、泣く子も黙るTBSの久世光彦が演出した『寺内貫太郎一家』に主演しておりました。
作曲家としての彼は、いわゆる流行歌の世界において、さほど多く曲を提供しませんでしたけれど、まだ彼が慶応大学を出たばかりの若い頃(当時は痩せていたそうです)から、CM音楽の世界では、他を圧倒するクリエイティブな才を見せつけていたようです。
多くの皆さんもご存知なCM曲では、
レナウンの『ワンサカ娘』や『イエイエ』(歌唱:弘田三枝子)、
日立グループの『日立の樹(この木なんの木)』(歌唱:ヒデ夕樹)、
ブリジストンの『どこまでも行こう』(歌唱:山崎唯)
日本酒の大関『酒は大関こころいき』(歌唱:加藤登紀子)、
積水ハウス『積水ハウスの歌」(歌唱:スリー・グレイセス)
ちょいと探してみただけでも、これだけ揃います。
以下の動画なんか、かなり興味深いですよ。クラシック音楽界の大物、山本直純と、小林亜星が、即興でCM音楽を創る過程が映像に遺されています。
亜星は生前、事あるごとに、次のような愚痴をこぼしていました。自分が生涯にわたってメロディを書いた作品は6000曲を優に超えるのに、その大半はCM音楽だったり、アニメの主題歌だったり……。〝その手〟の曲を紡ぎ出すクリエーターは、演歌やポップス系の流行歌を作曲する同業者より、数段も低く見なされていた。「それが悔しい!」というのです。
そんな亜星が都はるみに書いた『東京セレナーデ』は、前奏も含めてメロディの流れが「これぞ、歌謡曲!」というお手本のような出来栄えで、一度聴いてしまうと耳に絡みついて、つい小声で口ずさみたくなるほどです。
特に締めの部分の ♪~夜が泣いてる 夜が泣いてる 東京セレナーデ~♪ の音の上がり下がりが、実に心地よい響きでベリグーなんですね。
同じく都はるみに書いた『北の宿から』のミリオンヒットに比べれば、『東京セレナーデ』は、そこそこしか売れなかったようですが……。
令和の現在でも根強くカラオケファンに愛され続けている理由は、①歌詞内容のインモラルさに、(良い悪いは別にして)まだ日本が元気だった頃の六本木の喧騒を懐かしく思い返せること、②それを歌うのが、ベテラン演歌歌手の都はるみであること、加えて③亜星が書いたベリグーなメロディ……。この三位一体の為せる技だから、じゃないでしょうか。
『東京セレナーデ』を世に送り出したという事実だけで、昭和歌謡史において小林亜星という作曲家は、他のあまたの威張りくさった作曲家どもに混じり、堂々とそのデカイ図体をさらしまくって構わない! と、私は断言いたします。
ちなみにこの曲は、あと3ヶ月で卒寿を迎えるお袋の十八番だったりします。
週に2回、デイサービスでカラオケを楽しんで帰ってくるたび、「今日も……ほら、デブの作った歌、唄ったわよ~、デブの!」と嬉しそうに語ってくれます。
嗚呼、言うに事欠いてデブ! 失敬千万、令和の現在では、まずもってあり得ないほどベタなコンプラ違反でしょうな。
ま、そうは感じつつ、およ40年ほど前の日本……。
アンモラル(不道徳)な輩に対してもインモラル(ふしだら)な輩に対しても、そりゃ本音じゃ目くじらを立てつつも、ある程度は寛容でいられた時代……。
アンでもインでもない「真っ当なモラル」をお持ちだったはずの皆様方も、今より、はるかに表情が生き生きしていた! ように感じますが、気のせいでしょうか?
勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

古典落語と昭和歌謡を愛し、月イチで『昭和歌謡を愛する会』を主催する文筆家。官能作家【花園乱】として著書多数。現在、某学習塾で文章指導の講師。