吉田正
昭和歌謡_其の129
「作曲家・吉田正の世界(ムード歌謡編)」
流行は常に権力者が企む!
『有楽町で逢いましょう』 by フランク永井
『好きだった』 by 鶴田浩二
高波に乗る
昭和でカウントしてちょうど100年である今年=令和7年8月15日は、戦後80年めの敗戦記念日になります。
当コラムではここ数回、戦時中および敗戦後の流行歌謡について書かせていただきました。
戦時中の軍歌は、あきらかに軍部からの厳命により、100%戦意高揚の洗脳を目的として制作された「流行歌」であり、昭和20年8月15日の敗戦まもなく国民全員に愛された(はずの)「りんごの唄」は、アメリカのGHQ=連合国軍最高司令官総司令部からの厳命により、生ける屍同然になった日本人に生きる力を蘇らせるべく「映画や歌謡曲で洗脳せよ!」との目的で制作された「流行歌」でした……。
そして敗戦から5年、10年、15年を経て、ふと一息ついて周囲を見回してみりゃ、なんとまぁ、日本人ならではの勤勉な気質ゆえの成果でしょうか、奇跡的ともいうべき見事な経済復興を成し遂げておりました。昭和29年12月以降の神武景気、昭和33年6月以降の岩戸景気をくぐり抜けた頃には、おったまげの事実、年平均で約10%もの高い経済成長率を記録したのです。
当時の世相を、令和7年の現在から眺めますと、これほどとてつもない経済成長を、気持ちのどこかで「こりゃ尋常じゃねぇぞ!」と冷静に見据える感覚を、政府はもちろん私たち多くの国民も、ほんの少しでも持ち得たならば、平成時代の30数年間、政治も経済も文化も教育も〝こう〟まで酷くならずに済んだのではないでしょうか?
てな「?」は、残念ながら、当時を生きる皆さん方の脳裏に浮かぶはずもありませんやね。戦時中および敗戦後の体験が悲惨であればあるほど、いざ高度経済成長の高波に乗りに乗りまくり、まるで魔法のように自分の懐が一気に豊かになりゃ、〝あの〟時代のことなど、思い出したくもない! これも正直な人間の心持ちだったりします。
日本人は「誰しも脳天気」で、「喉元すぎると、過去のことはすぐ忘れちまう」から駄目なんだ! と断を下すムキもあるけれど、時代にやたら勢いがついて、汚かった街が一気に綺麗に整備され、商店街の店々にあらゆる物が陳列され、カネさえ払えば手に入るとなりゃあ、心もオツムもバブリーになりますって。
ワタクシ紳一少年は、といえば……、大阪万博が開催された昭和45年=1970年、齢8歳だったですがね、東京の場末繁華街である蒲田の駅前にある、母方の実家で寝起きしていたこともあって、裏の通りに居並ぶ「ロンドン」「歌麿(うたまろ)」「ハワイ」「レディタウン」といった大衆キャバレーの店々や、駅前商店街のスピーカーから飛んで来る、アイドル歌手、演歌歌手、フォーク歌手などジャンルを問わず、さまざまなメロディと歌詞の歌謡曲を、片っ端から覚えて脳天気に唄いまくっておりました。
巷の空気も実に明るく賑やかで、子供はもちろんのこと、大人も上っ面だけ眺めりゃ、ほぼ誰しもが、もはやアメリカと戦争をした過去、完膚なきまでに痛めつけられて負けた過去など「なかった!」ように振る舞っていたはずです。
国民の経済がめちゃ豊かになった「高度成長」真っ只中の時代……、軍部やGHQに代わって、今度は電通や博報堂をトップとする民間の広告代理店が、様々なスポンサーの注文に従い、大手のマスコミ各社に映画や歌謡曲やTVドラマの制作を、厳命ではなく「依頼」するようになります。
……そう考えてみますと、流行というのはいつの時代でも、常に誰かしら何かしら、必然的か〝たまたま〟かを問わず、権力を持った【一部】の連中によって意図的にでっち上げられます。事情を知らぬわれわれ大衆は、その姑息な企みに煽られ操られ踊らされるだけです。
決して大衆みずから流行を創るわけじゃない! そんな事実は古今東西、過去にたったの一度もない。
「いや、そんなはずがない」とおっしゃる皆さん方もおいででしょう。でも、失敬ながらこの場を借りて私は断言します。おそらく、それは貴方の勘違い。その勘違いこそがまた、【一部】権力者の思う壺、狙い通りに企みが進んだ証でありましょう。
ホステス好み
たとえば昭和32年=1957年7月に発売された、フランク永井の代表曲「有楽町で逢いましょう」は、大阪を地盤にするそごうデパートが、初めて東京のど真ん中、国電の有楽町駅前に店舗を出す! その宣伝を効果的に行うため、あくまで広告代理店主導で企んだ戦略キャンペーンの、テーマソングでした。
♪~あなたを待てば 雨が降る
濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりの ティー・ルーム
雨も愛(いと)しや 唄ってる
甘いブルース あなたと私の合言葉
「有楽町で逢いましょう」
心に沁みる 雨の唄
駅のホームも濡れたろう
ああ 小窓にけむる デパートよ
今日の映画(シネマ)は ロードショウ
かわす囁き あなたと私の合言葉
「有楽町で逢いましょう」~♪
作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正。私が大好きなムード歌謡を多数、世に送り出した超凄腕のクリエーターコンビです。
遊び半分で、いま話題のAI「チャットGPT」に、戦後の流行歌と作曲家の吉田正を絡めて「なんか書いて!」、……と乱暴な注文を出したところ、以下の文章が作成されました。
☆ ☆
高度経済成長と“心のインフラ”
1950年代後半から始まった高度経済成長。新幹線が走り、テレビが普及し、街は活気に満ちていた。しかし、急速な変化の中で、人々の心には“取り残された感情”があった。
インフラといえば道路や水道を思い浮かべるが、昭和の夜には音楽を通した“心のインフラ”があった。それがムード歌謡だ。
吉田正のメロディは、ラジオから、スナックから、街角から、流れて来て、いつしか誰もが口ずさめる“共通言語”となった。仕事帰りの酒場、別れの涙、叶わぬ恋。吉田正の音楽は、そんな人生の隙間に入り込み、共感と慰めを与えた。道路や建物が都市を形作るなら、ムード歌謡は人々の心をつなぐ架け橋だったのだ。
☆ ☆
ううむ、やるなぁチャットGTP。「心のインフラ」とは、うめぇことを言いやがる! ま、肝心の文章内容は、ネットにはびこる当時の情報を適当に寄せ集めた感じで、さほど新鮮味を感じませんけれど、仕事帰りの酒場に流れるムード歌謡を「心のインフラ」と位置づける発想は、私の中にまるで存在しませんでした。長いこと昭和歌謡に馴染んで来たのに、いやぁオハズカシイ。
もっともムード歌謡全盛期の頃の私は、しょせん小中学生のガキンチョですからね。毎晩飽きることもなく飲み屋でへべレケに酔いどれて、道端でゲロを吐くオッサンどもの本音の憂さなど、わかろうはずもありません。
童貞真っ盛りだった私が、自意識だけ目一杯背伸びさせてムード歌謡に「ハマった」理由はただ1つ、歌詞に登場する男女の艶っぽい色恋の行方に、愚かしくも勝手に自分を投影させて、ムムムムと妄想できたからであります。
例えば鶴田浩二の大ヒット曲『好きだった』。これも作曲は吉田正です。作詞は宮川哲夫(昭和31年=1956年発売)……。広告屋にまだ真面目に勤めていた頃の親父は、レコード会社から配布された視聴版のレコードを、けっこうな数、自宅へ持ち帰って来ていたのですが、その中の1枚に『ムード歌謡ベスト』なぞという、赤く薄っぺらいソノシートのLPがありまして、この曲も入っていました。
この時の私は中学2年生でしたっけ。初めて『好きだった』の前奏の、トランペットならでは、スーッと甲高く金管楽器特有の調べが響きわたるのを聴いた途端、大げさじゃなくて鳥肌が立ちました。さらに鶴田浩二の唄いだし、低く渋いトーンなのに甘く伸びやかな声で、♪~好きだった 好きだった~♪ ……嗚呼、私はこの一発でムード歌謡の虜になってしまったのです。
♪~好きだった 好きだった
嘘じゃなかった 好きだった
こんな一言 あの時に
言えばよかった
胸にすがって 泣きじゃくる
肩のふるえを ぬくもりを
忘れられずに いるのなら
好きだった 好きだった
口にゃ出さぬが 好きだった
夢にまで見た せつなさを
知っていたやら
馬鹿な男の 強がりを
せめて恨まず いておくれ
逢える明日は ないけれど~♪
茨城県日立市出身の吉田正は、いわゆる音大出のインテリ作曲家ではありません。ただ幼い頃から音楽が大好きで、自宅にあったレコードを片っ端から聴きまくったそうです。そして地元の日立製作所内の工業学校に通いながら、社員で構成された楽団に参加。すぐに実力を認められて……。作曲もこの時期に独学で学んだとか。
昭和17年1月、21歳の彼は赤紙召集によって満州へ出兵し、敗戦後は捕虜。シベリアの収容所での過酷な生活が3年も続き、晴れて復員できたのは、昭和23年8月のことです。
おそらく同業の作曲家の中で、吉田ほど戦争の悲惨さ、残酷さ、戦地での理不尽さを味わわされた者はいないはずです。その胸中の、言うに言えない情動を思いっきり振り払うがごとく、彼は大好きな作曲活動に全力投球します。それも、都会の盛り場、特に銀座や赤坂などの夜の「空気」をそのままメロディに転化させた音楽=ムード歌謡を、日本ビクター専属のさまざまな歌手に歌わせては、次から次へと大ヒットを飛ばしたのです。
いつしかその活躍は「吉田学校」とも称され、門下生には、先に記したフランク永井、鶴田浩二のほか、三浦洸一、和田弘とマヒナスターズ、松尾和子、橋幸夫などがいます。
中でも昭和34年=1959年7月発売の『東京ナイトクラブ』は、ムード歌謡系デュエットソングの教科書みたいな1曲で、耳に心地良いメロディと覚えやすい歌詞(作詞:佐伯孝夫)の効果、そしてなにより低音の魅力のフランクと、発声の仕方がもろエロい! あまりに艶っぽ〝過ぎる〟松尾和子の声とのハーモニーは、まずは実際に全国の繁華街のナイトクラブで働くホステスたちの間で、話題になりました。
♪~なぜ泣くの 睡毛(まつげ)がぬれてる
好きになったの もっと抱いて
泣かずに踊ろよ もう夜もおそい
私が好きだと 好きだと云って
フロアは青く ほの暗い
とても素敵な
東京ナイトクラブ
もうわたし 欲しくはないのね
とても可愛い 逢いたかった
男は気まぐれ その時だけね
うるさい男と 云われたくない
どなたの好み このタイは
やくのはおよしよ
東京ナイトクラブ
泣くのに弱いぜ そろそろ帰ろう
そんなのいやよ ラストまで
踊っていたいの
東京ナイトクラブ~♪
まだカラオケボックスどころか、カラオケという言葉自体、音楽業界の人間でもなけりゃご存じない、……そんな時代です。あくまで口コミで、ホステスの話が店の常連客に伝わり、リクエストを受けたハコバン(店のステージで演奏するバンド)は、一晩に何度も『東京ナイトクラブ』を演奏し、それに合わせて、店のあちらでもこちらでも、隣り合わせたホステスと客が酔いどれ混じりに口ずさむ。
当時の歌謡曲は、このように口コミの連鎖で「この歌、イイね!」と話題になってレコードが売れだし、気づけば大ヒット! みたいな流れが当たり前でした。
マスメディアは、まだまだラジオが主流でしたからね。NHKのテレビ放映開始が昭和28年、民間放送では日本テレビが同じく昭和28年、TBSが3年遅れて昭和31年、NET(現在のテレビ朝日)とフジテレビは、『東京ナイトクラブ』の発売と同じ昭和34年の開局……。
そんな時代ですから、歌謡曲をヒットさせるコツは、「とにかく夜の商売の女性、ナイトクラブやキャバレーで働くお姉さんたちに愛されること、これに尽きる!」、「僕はね、モテたのよ、そういうお姉さんに(笑)。だからレコードも売れました」と、つい先日、前川清がBSの歌謡番組の中で懐かしそうに語っていました。
吉田正のメロディは「特にホステス受けが良い」という評判が、音楽業界に流れたそうです。これは吉田本人が生前、語ってました。
彼はムード歌謡のブームを巻き起こしつつ、次に手掛けたのが、吉田学校の門下生である橋幸夫、吉永小百合、三田明などに歌わせた、青春歌謡の数々です。これもまたガンガン売れました。
この話については、次回に回しましょう。![]()
勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

古典落語と昭和歌謡を愛し、月イチで『昭和歌謡を愛する会』を主催する文筆家。官能作家【花園乱】として著書多数。現在、某学習塾で文章指導の講師。





























































































































































